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【ZEROまち歩き@押切、歴史・まち探訪@宮内・摂田屋】(前編:押切)

本番を前に、どうしても寄りたいところがあり「押切駅」で下車。

ふらっと歩く道中見かけた光景。田植えを始めるための準備に朝早くから汗を流している男性。気付いてくれたようだ会釈してくれた。こういう方々がいて、はじめて生活が成り立っていると改めて感じた次第。

大黒古戦場にある戦死供養塔。

一度、新政府軍の手に落ちた長岡城。

慶応4年6月2日、見附・今町の戦いを皮切りに長岡藩の逆襲撃が始まった。継之助自ら戦地に赴き指揮を執る。また、同戦いには山本帯刀や二見虎三郎(小千谷談判に唯一同席した藩士)、弥彦出身で東日本随一の侠客と言われた観音寺久左衛門らが参戦。新政府軍も堪らず撤退したほどである。

ここ大黒も長岡城奪還における激戦地で1ヶ月弱もの間、激闘が繰り広げられた。最終的に戦死した人達は野晒しにされている中で、地元の人は手厚く葬ったという。(新潟県内の戊辰戦争関連において、死者の埋葬に関しては様々な石碑が建立されている。)

供養塔敷地からすぐのところにある、長岡市北越戊辰戦争伝承館。開館時間が10時からのため中には入ってないが、外には戊辰戦争に参戦した各藩の旗が掲げられていた。

同じ敷地内には、近代医療の先駆けを担った一人として有名な長谷川泰。

佐倉順天堂(現在の順天堂大学)の創設者である佐藤泰然のもとで学び、更には泰然の次男である松本良順のもとで実技を受けて、只見で河井継之助の最期を看取った人物の一人でもある。

※松本良順は、新撰組の沖田総司の治療にも当たったことで有名。

北越戦争での激戦の様子もさることながら、徳川幕府が終わりを迎えやがて明治に突入するが、その頃に活躍した人の功績も目を見張るものが多い。時間が許す限り、県内各地の散策を続けていく所存。

後半へ続く

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