見出し画像

「峠」のその後、気になるなら縁の地を歩きませんか?

↓新潟県人会 歴史まち探訪部グループページ
https://www.facebook.com/groups/442151996165954/?ref=share

17日(金)に公開された「峠」。
話はCMでご存知の方もいると思うが、河井継之助の北越戦争開戦より少し前から没するまでの間の話となっている。

では、継之助に付き従った長岡藩士やその他北越戦争に参戦した他藩士の足取り、継之助が只見で没した際に周りにいた人達は?気になるのではないだろうか。

そこで、福島県を舞台に約3年ぶりにこのグループでの史跡巡りを開催する事に舵を切り始めた。とは言え、福島も新潟同様に横が広い。そして、継之助と関わりのあった人物の足取りを調べていると、福島にも相応いてしかも移動幅が広いので、1泊2日とは言え全てを網羅することは不可に近い。だからこそ、新潟縛りをここでかけて置くことで、必要最低限の訪問箇所に絞り込むことも出来、1箇所あたりの滞在時間も長めにとる事が出来る。

実の所、数年前に今は終了してしまった「奥会津ROCK」という音楽フェスのボランティアスタッフで奥会津に行き、その仕事終わりに休まず会津若松まで攻めに行こうかと思ったら、想像を超える疲労感に突如見舞われてしまい、近くの道の駅で爆睡する始末(笑)

会津若松行きは時間が足らないため、只見町なら意外と近いのでは?と咄嗟に思い出し、只見町まで車を走らせる。(無駄に起床が早く、朝4時(笑))

そこで、只見町にある河井継之助記念館(むこうでは「継(つぐ)さん」と呼ばれていたそうな。故にこちらは、つぐのすけ)へ行き、合わせて町の衆が焼骨の際に出た遺灰を掻き集めて埋葬した祠が、記念館から歩いてすぐの所にある「医王寺」傍に今も立っている。

その後、只見町をひたすら歩いていると、そこかしこに長岡藩やら新潟やらのキーワードがずらり。そう、北越戦争後避難してきた長岡藩士や民衆に関連した史跡に纏わる解説が所々に書かれていたのだ。まるで、会津若松みたく歴史に関しては新潟以上に力を入れて発信していること。それに対する本気度すら窺えてくる。個人的に、新潟も福島に倣って力を入れてもらいたいくらいだ。じゃないと、結構見落としがちのものが多い。

さて、過去に継之助命日に投稿した記事があるので、参考までに目を通してみても良いかと。ついでに、僕が戊辰戦争(極めつけは北越戦争)に関心を持つ原点が少し書いてあります。

継之助の命日に想うこと|風来坊Ka-z(KAZUYA.M) #note https://note.com/ka_z0104nhs/n/n6a16683f3959

非公開グループでの開催なので、グループに参加されていない方で興味ある方いましたら、お気軽にご相談ください。

【最後に】

まだまだ祖先の足跡探しも道半ばだけれども、いつしか分かったその時は祖父の元へと報告しようか。それにしても、北越戦争を生き抜いた祖先の当時の心境は如何程だったか。

歴史の真実の奥の奥に思いを馳せて。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?