『マリー・ダグーの肖像』アンリ・ラマン、1843年
アンリ・ラマンという画家を知っていますか?
私も実はあまりよく知りませんでした。
しかし、彼が描いた肖像画はどこかで目にしたことがあると思います。
今週からはアングルと同じ時代に生きた音楽家たちを絵から見ていきたいと思います。
アンリ・ラマン
父親は、ハンブルク出身の肖像画家、レオ・ラマンで、弟に肖像画家としてイギリスなどで活躍したルドルフ・ラマンがいます。
父親から絵を学んだ後、17歳の時にパリに出て、ドミニク・アングルに学んでます。
そう!彼もアングルの弟子の一人なのです。
もちろん、シャセリオーやモローとも友人関係でありました。
シャセリオーについてはおさらいしてみてくださいね!
ローマでは作曲家のフランツ・リストとその愛人のマリー・ダグーと親しくなり、彼らの肖像画を残しています。
この肖像画は有名でリストというとこの絵が出てくると思います。
リストといえばピアノの魔術師と言われた人で、ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残る、あのリストです。
今回の絵はそのリストの愛人であったマリー・ダグの肖像画です。BGMは巡礼の年でお願いします…。
マリー・ダグー伯爵夫人
リストが初めてマリーに会ったのはベルリオーズの紹介と言われています。
ベルリオーズとリストは生涯友人であり、ライバルでもありました。
リストと出会った当時、パリの社交界を代表する人物のひとりだったマリー・ダグー伯爵夫人は、ダグー伯爵と結婚5年ほど経った頃で、その結婚生活は表面的なものであったようです。
パリ社交界の花形であり、美しく知性にあふれた彼女と、若く才能あふれる音楽家であるリストとは、自然に惹かれ合ったのではないでしょうか。。
リストと恋愛関係になったマリーはやがて妊娠をしてしまい、リストと駆け落ちともとれるスイス旅行へ出かけます。
さすがに火遊びは良くとも、妊娠となると別ということでしょうか…。
この時作曲されたのがかの有名な『巡礼の年』。
これを踏まえて聴くと駆け落ち旅行というか、ハネムーン?という感じもします。
(巡礼の年は村上春樹の小説にも出て来ましたね。あれは贖罪の話しでしたが…)
さて、この絵が描かれたのは1843年。
マリーはもう30代後半でありました。
リストとの間には三人の子がおり!前夫との間には二人いたので五人も出産を経験していることとなります。
マリーは1844年にリストと別れています。
結婚はしなかったんですね、とっくに伯爵とは別れていたのに。(元伯爵夫人という肩書きを捨てれなかったのでしょうか?)
理由としては、各地で演奏会を開いていたリストにはついていかずパリに住んでいたため、リストとなかなか会えなかったこと。リストの派手な女性関係に耐えられなかったとも言われています。
(マリーはパリでサロンを開いていて、そこに芸術家たちも多く出入りしていたようです)
ところでマリーは今回の肖像画を描いたアンリとも関係を持っていたと言われています!
冒頭に書きましたが、アンリはシャセリオーとも友人でありました。
マリーがシャセリオーを評価した言葉が残っているのですが、
シャセリオーが魅力的な人物であったことがわかる文章です。モテモテアリスを恋人にできたのもわかりますね。(当時すっごい嫉妬されたとか)
また、この文章からマリーはアンリ・ラマンと恋人関係であったということになります。
シャセリオーが描いたマリーの肖像画(スケッチ)も残っています。
もちろん彼らの師であるアングルが描いたマリーのスケッチもあります!
マリーはリストと別れた後、ダニエル・ステルンというペンネームで作家・ジャーナリストとして活動しています。なんとリストとのことを暴露した本を執筆しているのです!
マリーとリストの娘は後にあのワーグナーと結婚しています。
アンリ・ラマンは後にフランス国籍を取ってパリ国立高等美術学校の教授となっています。
弟子にあの点描で有名なスーラがいます。
さて、リストと同時代の作曲家といえばショパンですよね。
ショパンとジョルジュ・サンドはリストとマリーの紹介で出会っているのです。
次回は、ショパンについて一つの絵から書いてみたいと思います。
もちろん、あの人が描いたショパンです!
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