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私と誰も知らない娘とのこと


冬の終わり。
街路樹の木蓮の蕾が膨らんできた。冬の薄い水色の空にグレーの毛玉みたいな蕾。
だんだん柔らかく膨らむその蕾とは対照的に私の肩が、首がぎゅうっと縮まる。胸の中心が暗く、重たくなる。
身体が思い出している。
2年前のこの季節に私は子供を失った。
子宮内胎児死亡。28週での死産だった。

生きて産まれてくることを疑っていなかった。
幸いにも妊娠のチャンスを得て、子育てに不安を覚えながら、大きくなっていくお腹を抱えて、出産の日を待ち侘びていた。
ボコボコと元気にお腹を蹴る感覚。女の子だと言われていた。
数か月前の妊婦検診で、胎動がないと顔面蒼白で訴える妊婦を見た。
自分には起こり得ないと思っていた。

前の日に、2歳の長女と即席のちらし寿司で雛祭りを祝った。

2人も育てられるだろうか。
責任の重さに押しつぶされそうになり、泣いたばかりだった。

夕方、軽い下腹部痛があった。
夜になっても胎動はないが気にも留めなかった。
翌朝、お腹が垂れ下がるように重たくなっていた。何かおかしい。
産婦人科に電話し、タクシーで向かう。
外来開始前の早朝だった。
いつもとは違う部屋に通され、助産師にお腹にエコーをあてられる。
シーン。
何の音もしない。

一週間前の検診では、「ドクン、ドクン」という規則正しく力強い心音が聞こえたっけ。

医師が呼ばれ、再びエコーがあてられる。
「赤ちゃんの心臓が動いてません。入院して、出産になります。」
静かにそう告げられた。
自分の手足が冷たくなっていく。事情を告げた電話の向こうで泣いてる夫。
入院する病棟に行くため玄関脇の人通りの多いエレベーターではなく、北向きの暗い廊下の先のエレベーターを案内される。

案内するスタッフとの気まずい沈黙。何気なく、
「入院の手続きをまだしていないのですが、母子手帳は提出の必要がありますか」
と聞く。いつも、検診のときは必ず提出を求められていたから。
「記念にしたければ出してください」
とスタッフからの返事。耳を疑った。記念?赤ちゃんが死んだ記念?
明らかに場違いな回答。
普通の出産だったらこの回答も違和感はない。
おなかの中の胎児が死んでしまった瞬間から私のほうがここでは場違いなのだ。
東京都内の有名店出身のシェフが作る高級祝い膳と、無痛分娩が売りの、お城のような産婦人科。

無痛分娩を希望して、ここの病院での出産を決めていた。
スタッフも丁寧でホスピタリティにあふれ、感じがよかった。

でもこの瞬間のスタッフの対応から、胎児が亡くなっての出産がここではほとんど想定されていないことがうかがわれた。

ふわふわと現実感がないまま、手渡された病衣に着替え、処置室で処置をうける。ラミナリア桿が数本膣に入る。
水分を吸うことでラミナリア桿が膨らみ、人工的に子宮口を広げるという。
部屋に戻るよう言われ、下腹部に違和感を抱えながら歩いてかえる。

途中で新生児ココットを押した数人の女性とすれ違う。
すやすや眠り、またはかわいらしい泣き声をあげる新生児。
それを見つめる母親と彼らを見つめる私。
生きた赤ちゃんを産んだお母さんたちの病衣は皆ピンクだ。
その時初めて気がついた。
同じく出産を目的として入院する私の病衣はブルー。
思い詰めて他人の子供を連れ去ったりする可能性があるからだろうか。
私はここでは色で分けられる必要がある人間であるということらしい。

その夜、眠れなかった。
ただ自分を責め続けた。
彼女は何故死んでしまったのだろうか。
身体がだるくてあまり運動をしなかったせいだろうか。
不安になり、2人なんて育てられないかもしれないと思ってしまったたせいだろうか。

これは夢なんじゃないか。

でも、明日の出産時に備えて点滴のルートが確保された腕は痛み、下腹部のラミナリア桿は膨らんで不快だった。その感覚は確かなものだった。

眠れないまま、朝がきた。

朝から陣痛促進剤が点滴開始されたが、なかなか娘は降りてこず、子宮口はひらかなかった。
ときどき回診に訪れる助産師との会話以外、
鈍い腹痛のなかでただ一人で天井を眺めて過ごした。
隣では何人かが出産を終え、うれしそうな家族の声と、新生児の朗らかな鳴き声が聞こえた。

私は2年前の長女の出産の様子を思い出していた。
おなかに充てられたドップラーから聞こえる心臓の絶え間ない音、生理痛の痛みから、体が真っ二つに裂けるような痛みへと強さを増していく陣痛。
心臓の音は力強くて、規則的だった。
このまま外の世界に生み出さなければ。
たとえ自分の体が裂けてもうまなければ。
使命感を感じた。
長女の産声を聞いた。
愛情よりもまず、
『生きたままこの世に誕生させられた』
ことを安堵をした。


今回は私はどうすればいいのだろう。
心臓の音が聞こえない分娩室の中は静かだ。
薬で起こすだけの陣痛は中途半端で弱々しいままだった。
ずっと寝かせられたままで、身体のあちこちが痛かった。
でも、亡くなったと告げられた胎児は確かに私のおなかにいて、遺体はまだ見ていない。
もしかしたら生きているかもしれない、限りなくゼロに近いとしても。
可能性は捨てられなかった。

その日の夕方、やっと病院の病院長と称する白髪の男性医師が分娩室にやってきて、薬の追加を指示した。
何度かいきむように指示されたのち、バシャッという水音とともに私の股の間から塊が生まれた。
生み出す瞬間それは温かかった。でもそれは私とは別の生を感じさせる温かさではなかった。
聞こえてくるはずの泣き声は聞こえず、おめでとうの言葉もない。

「明日には退院できるよ。」
という言葉を残し、男性医師は立ち去った。
早く出ていけということだろうか。
確かに授乳指導も、沐浴指導も必要ない。
1キロほどの小さい胎児が通ったあとの体はほとんど痛みが残っていなかった。
本来ならば別の病院で産むような患者なのだろう。胎児が死んでるだけ。
母体の生死を脅かすような症状はない。
この2日ずっと眠れなくても。もう死んでしまいたいと思っていても。

担当の助産師が医師の言葉を取り繕うように声をかける。
「本当にお母さん思いの子だね、お母さんの体を傷つけることなく、膜に包まれたまま、生まれてきてくれたよ。」
同じことを言っているのに、全然違う言葉に感じた。

さらに助産師は何気なく言った。
「きれいにしてきたら、抱っこしてみる?」

迷った。
会わなければ、現実にはならないような気がした。
「今は無理です」
私は現実を認めることを先延ばしにすることにした。
出産したというのに体のダメージは軽く、それがまた現実感を薄くした。

しかし、トイレに行く度に、赤黒い悪露がでていた。
確かに出産したようだ。

翌日、夫と一緒に子供に会うことにした。

我が子なんだから、かわいいって思えるはず。私はお母さんなのだから。
もしかしてこれは夢で、生きた子供に会えるかも。

そう言い聞かせながら暗い病室で、ブルーの病衣で待った。
助産師に運ばれてきたベビーコット。
ピンクの病衣のお母さんが押していたのと同じ形のものだった。

でもその中に入っていたのは、やはり遺体だった。

夫は大きな声で嗚咽した。

彼女は私と同じ天然パーマで、顔は夫に似ている気がした。

私は娘を亡くした。

彼女の顔は赤黒くむくんで、皮膚はごく薄く、触ったら破れそうだ。
小さな体は硬直して硬い。冷たい石を抱いているようだった。

柔らかくて、温かくて、小さくて、いい匂いがする赤ちゃんはそこにはいなかった。

かわいいなんて思えない。
グロテスクで気持ち悪い。

自分の娘に会ったのに、かわいいとも思えない。

私は妊娠継続も、生きた子供の母になることにも、
子供を亡くした母になることにさえも、全部失敗した。


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