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性善説と性悪説

◆まえがき

最近友達と「性善説と性悪説」の話したんですが、個人的に凄く面白かったので備忘録を残そうと思います。

テーマが古代ギリシャ人みたいですね。

暇人なので喋ることが“こういう系”になりがちです。いつも付き合ってくれる相手には感謝しています。

友達は性悪説、自分は性善説の立場で喋ったんですけど、基本的に共通認識に『人間は醜いね』というものがあって面白かったです。

◆お互いの意見

○性悪説:友人の談(を自己解釈したもの)
人間はすべて利己的である。
善行も根底には自己愛や自己保身があり、その時点で善とは呼べない。
人間は自分の為であれば何でも出来る。そこに善悪の判断は介在しないし、仮にしたとして、その善悪の基準も自分から見たものである。
人間が善性の生き物だったら、戦争もしないし自殺者だって出ない。格差なんて生まれない。善=唯一絶対の正解なのだから、社会はもっと均一になるはず。
でも社会は抑圧に塗れているし、結果として現れる様々な行動は自己中心的そのもの。
人間はどこまでも自分のことしか考えていない、悪性の生き物。

○性善説:自分の主張
人間はすべて利己的である。言動の根底には必ず利己の心がある。
結果として、人間の振る舞いは善性に寄る様にできている。
善性とは、秩序を守る為に社会が形作る方向性である。社会性生物である人間は、その正しさを追求せざるを得ない。規範から外れる事は自身の危険につながる。
内在する不安・葛藤・醜さも、個人の正義や信仰といった『個々の正しさ』に救済される。また、表出する振る舞いも善に寄る。
善性は無力な人間でも身に付けられる初期装備かつ非常に有効なシェルターだ。
愚かで脆弱で醜くてどうしようもない人間が生きる為に身に付けた最大の道具が善性である。

こんな感じでした。

これを友人が読んだら、もしかした、「言いたかった事と全然違うが?」となるかも知れません。

認知の歪みに自覚的でも直せるとは限らないんですね……悲しいですね……。

◆以外、蛇足です

今回のお喋りでは、“善をどう捉えるか”が分岐点な気がしました。

イノセントな正解や悟り、涅槃みたいな物だったら、人間には永遠に得られない。
そもそもこうやって善だ悪だと区別しようと躍起になる時点で駄目です。

自分は、人間の傾向・振る舞いの構造として安寧を保つ方向に動く事が善だと思ってます。
自浄作用とも言う。

例えば「いじめがあるから見逃す日和見菌的な振る舞い」を引き合いに出すと、ここで本人は安寧を取るために動かない訳です。

それを「悪だ」と感じるとしたら、その痛覚は善性の痛覚だし、悪だと感じないのは自分が“不在”だからです。

自分の事になったら助かりたくて堪らなくなる。

自己中心的極まりないですが、これが“共感”として共有されていないと自浄作用が働かない。

私の唱える性善説の中で、善性とは“システム”であり、どこまでも道具なんだなぁと改めて感じますね。

そもそも善悪が人間の主観だから、その中の善が人間に都合のいいものになるのは必然、という頭で言葉を選んでいるからこうなっちゃうんですね。


◆まとめ

オチもへったくれもありませんが、人間って多面的で正解とか無くて、潜り始めると自認と深層心理の隙間で溺れるしかできないよわよわな生き物だとおもうので、程々に自分の為に生きていけたら幸せなんじゃないかなぁと思います。

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