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伊坂幸太郎『フーガはユーガ』を読んだ

 久しぶりに紙媒体の小説を読みました。やっぱり読書は紙でしたい。

 私はこれまでの人生で、伊坂幸太郎作品を数本しか読んでいない。
 その全てが酷く心に残っているので、伊坂幸太郎作品は全部そうなんだと思っている。

 禍根の残らないハッピーエンドでは無い。それでも理不尽な世界で生き抜く双子の姿は痛快だったし、彼等の人生は伊坂幸太郎の手で綿密に編まれ、全てが一つの事実に収束している。主人公達が好んで使う軽やかな言葉遊びも心地良い。
 そういう意味ではいたく「気持ちいい」作品だと思う。
 もしも今、私が「オススメの小説は無いか」と問われたら、バイオレンスが不得意で無いか訊いた上で『フーガはユーガ』をオススメすると思う。

※以下、ネタバレあり

 語り部の常磐優我、その双子の常磐風我。二人は想像を絶するようなDV家庭で育つ。彼等は、彼等が持つ入れ替わりの能力が仮に無かったとしても、「普通じゃない」人間だった。彼等にとっての普通とは、彼等以外のその他大勢だ。
 普通はシャンプーの後にリンスを使う。
 普通は夕ご飯が毎日食卓に並ぶ。
 普通は親に殴られない。
 そういった、いわゆる普通の事柄を知らない彼等は、その現実に抗わない。抗っても無駄であることを、人生の序盤に学習し終えているためだ。
 抗っても無駄なほど過酷な人生を生き抜くにあたって、彼等には二つの強みがあった。
 一つは、双子であったこと。痛みを共有する人間がいる。彼等は少なくとも孤独では無かった。
 もう一つは、作品のミソである“入れ替わり能力”だ。誕生日の10時10分ほどから終日まで、二時間おきに、互いの座標を入れ替える現象が起きる。自分が特別であるという認識はどんな形でも生きる希望を与えるし、この謎の現象を解明することは二人にとって良い暇つぶしだった。

 こういった小説は、全てが全て問題提起のために書かれているわけじゃないと分かっていても、読む度に考えてしまう。
 この物語は実在しなくても、似た痛みは確実に実在する。
 機能不全家庭サバイバーの感覚は、一般家庭の人間には理解できない。想像はできても理解できない。結局、我が身をつねって痛さを知れという諺の通り、経験しない痛みは想像以上になり得ない。
 小説家は、その想像一本で、経験しない痛みを読者に与える術を持っている。まったく凄い仕事だと思う。

 話がそれてしまったが、彼等は淡々としている。双子しかり、小玉さんしかり、名前も知らないランドセルの少女しかり。外側から見たらあまりにも痛ましい身の上を、感じた以上に誇張しない。
 ただの事実として描かれる。
 その切り取り方が、心地良い読み味の一因だったのだろうなと思う。

 個人的に好きだったのが、ラストで死んだ優我が語り部を継続していたところだ。乙一の『夏と花火と私の死体』を思い出した。読んだ人は体感すると思うのだが、死人が一貫して語り部をしているというのは酷く奇妙な心地がする。奇妙なのが好ましい。私は好き。
 地の文で宣言したとおり、優我の心配性は死んでも変わらなかったらしい。
 それに、ハルタとハルコに優我の振るまいが正しく伝わっていたと知れたことは、彼にとっても、一部始終観測していた私にとっても救いだった。

 優我の人生は、波乱に満ちているが乾いている。敢えて説明するのも野暮なので、一口に乾いていると言い切ってしまう。
 私が感じた読後の清涼感は、彼が乾いていることに由来しているんだろうなと思う。

 我ながら不格好な感想だが、明日の自分が、この心地良い読後感を思い出す手助けくらいにはなると良いなと思う。

2022/08/07

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