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都市のケモノ

 あの川には巨象が沈んでいる。私には確信がある。あの川の底には四足歩行のケモノのかたちをした巨象が沈んでいる。今はただ強欲と野蛮と一緒にひと時の微睡みの中にいる。私はいつもの散歩コースの橋の上から、ケモノの寝息が聞こえやしないか、耳をそばだてている。

 「やっぱりうまくいかないよ。君はいつ目覚めるの?都市を破壊するのなら、間違いのないように私のことは一瞬で仕留めてね。生存の猶予なんて与えないで。君の目覚めに気づく前に一瞬で。お願いよ」

 端の上から川を眺めて、ぶつぶつ呟いている私は自殺志願者に見えてはいないかと周囲を見渡してみたけれど、橋を行き交う人々はそれぞれ何か思案しているか、あるいはつかの間意識を手放してしまったかのようなぼんやりとした表情で、他人の命には1ミリの興味もないといった様子だ。それはそれで心地いい。万が一、誰かが私の姿に死の影を感じ取っていたとしても、私は今、死んだりはしない。ケモノの目覚めの日まで生きるのだと誓いを立てている。その誓いこそが私を生かしていると言ってもいい。

 向かい側からスマートフォンを右耳にあてて歩いてくる長髪の女性がある。東京湾から流れ込んでくる風に乱された茶髪を左手で整えながら、大丈夫だよ平気だよ、××は気にしすぎだよ、〇〇言ってたよ××のことちゃんと好きだって、うん、ただの友達だよ、××だって男友達くらいいるでしょ、え?今から△△くんと会うよ、なんか美味しいイタリアンを食べさせてくれるんだって。と、巧みに会話している。大体20大前半くらいの年齢だろうか。声色と表情に若干の乖離が窺えたものの、亡霊のように生気のない人々ばかりのこの橋の上で、生きている人間は彼女ただひとりであるかに思える。

 「私は次の世界に続いているみたいなこの橋が大好きなんだ。だけど、私の住んでいる箱庭の町からこの橋を渡りきってもまた同じような別の箱庭に辿り着くだけ。だからさ、どこかに行ける可能性があるのはこの橋の上だけなんだよ。その次の世界への門番が君なんじゃないかって私は思っているの。どうかな、私の考え。全部が間違っているわけじゃないよね」

 巨象は私になんの言葉も返してはくれないけれど、仕方のないことだ。巨象はケモノで、理性を持ってはいないのだから。

 そろそろ私は私の箱庭に帰らなければならない。誓いは死ぬまで守り切ると決めている。

 「それじゃあ、また」

 またぼんやりと、橋を行くたくさんの人と同じように、私は私の魂を少しだけ手放して歩く。その時、何か大きな本流から零れたような細い流れが頭の中にやってきた。そうだ、川に眠っている本当のモノはある、強大で荘厳な、都市をも一瞬で破壊しうる力なんだ。道の領域から流れ込んだその力は無尽蔵のエネルギーを持った混沌だ。混沌が私たちの世界に現れるには、それを受け取る器が必要だ。そこでその器として選ばれたが、川に眠るケモノのかたちをした巨象だったということだ。ケモノは私たち都市を生きる人々と、混沌とを繋ぐ重要な接続器官となり、来るとき、私たちにすべてを破壊して未だどんな名前も付けられなかった、なにものでもなかった頃に還してくれるのだろう。

 「わかったよ。君が四足歩行のケモノのかたちをしていることは想像できていたけれど、君の皮膚の触感、両眼の漆黒だとか。今始めて思うことができたよ。君は君が食べた都市の亡骸に宿ってる。それが四足歩行のケモノに再構成されて君になっている。君には東京タワーでできた角が向かって右側にあって、左側にもうひとつの角を手に入れるために、君は目覚めたらすぐにスカイツリーを食べに行くのだろうね」

 漠然としていた巨象に具体的なイメージができて、今日はこれ以上この彼岸の門に対峙してはいけない、危険だと感じた。帰れなくなる。誓いを破ってしまう。

 私は今日、ここに来るまでの私と少し違うものになってしまった。

 私は箱庭に降り立つ少し手前で、未だ3つにもならないくらいの子供と母親とすれ違った。子供は覚束ない足取りで母親に先行し、母親は心配そうな、しかし、温かい愛情に満ちた眼差しで彼を見守っている。私は思う。あのふたりも生きている人間だ。彼岸の門にも、その門番にも気付かずに生きる、都市を愛し愛されている人間だ。そうか、ケモノの目覚めを待っているのは都市の亡霊だけか。私は亡霊か。私はもう生きてはいない。都市には生きていないのだから、私は彼岸の門があることを知っているのだから、ケモノに都市を壊してもらう必要はないのかもしれない。道の奔流が清流のような冷たさと透明さをもってこちらにやってきた。ケモノは生者と亡霊を区別することはできない。理性を持たないままケモノが目覚めたのなら、全てを壊してしまうだろう。先ほどの母子のような都市に生きている人間までも。ケモノには智が注がれなければならないのではないか。遥か昔から神や妖怪、魔物だとか人が到底対抗できない大きな力は、人柱、すなわち生贄を必要とはしていなかったか。それならば既に自覚ある亡霊の私は大いなる混沌の器、蒙昧なるケモノにほんのわずかな知性を注ぎ込む人柱となろう。私はほとんど無知の小さな小さな亡霊だけれど、ケモノに必要なものはたったふたつのことを見分けるだけの理性なのだから、むしろこれには私が適任だろうと思う。この役に、「賢者」などが選ばれてしまったら、ケモノはついには自らの消滅を願うようになってしまう予感がある。

 私にあるものはもはや彼岸への愛だけだ。ここではないところ。ここで第2の誓いを立てることにする。私は私に彼岸の門とその門番を存在を見る、透明な物語の語り部となり、この川で眠る巨象に必要なだけの智を注ぎ込むこと。





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