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The Best Movies of 2021(2021年振り返り:映画編)

『ドライブ・マイ・カー』 濱口竜介

演技とは、役者とは、映画とは、こんなにも驚きに満ちた時間を作れるものなのか!息を潜めながらその瞬間に立ちあえた、至福の3時間だった。
みさきがサーブを運転し続けるあの永遠のような時間や、二人の関係性が演劇的マジックを生み出すあの公園のシーン、そしてあの長回しの高槻のシーン、、、。
本作は未だ、ふとした瞬間に、各シーンが脳内で再生されるときがある。それも頻繁に。
きっと自分の身体の中に入りこみ、棲みついてしまった作品なんだろうと思っている。そんな作品に出逢えることは滅多にない。

「物語の都合でなく、台詞と本人とが一つに重なってくるために、適切に準備をする。そうすると、ある時とんでもないところにたどり着く。その驚きを映画としてただ伝える」

ラジオのインタビューで、そんな事を濱口監督が言われていたのが印象的だった。「適切に準備する」事が持っている本質的な誠実さとは、あらゆる表現に共通するものなのかもしれない。


『スイート・シング』 アレクサンダー・ロックウェル

世界中のあらゆる子どもたちへ寄せる「どうか彼らの人生に幸せが訪れてほしい」と願う監督の想いが、子守唄のように刻印された作品。
この小さな宝物のように優しく、キラキラと光る作品は、アレクサンダー・ロックウェルから手渡された、アメリカのインディペンデント映画の未来への宝箱のようだ。
全てのシーンが愛おしい。


『アメリカン・ユートピア』 デイヴィッド・バーン

こんな最高な音楽の在り方への、こんな最高な年齢の重ね方への、こんな最高な『ストップ・メイキング・センス』への、そしてこんな最高なアメリカの姿への、アップデートのかたちがあろうとは!という感動。
表現を削ぎ落とし、「身体表現」を極度に浮かび上がらせるための、ワイヤレスのテクノロジーを用いたアイデアと、そこに至るまでの鍛錬。
他者への尊重と連帯を、真摯にでもポジティブに呼びかける、知性とユーモア。
67歳にして、真正面からてらいなく「われわれ人類が目指すユートピアの姿」をステージとして表現する光景を信じられない思いで目にし、最高に元気をもらい、感動で涙した。
そしてステージ後の、自転車に乗ってさらりと帰る後ろ姿の何というかっこよさ!
自分は、デイヴィッド・バーンを人生のあこがれの人にする事に決めた。


『ボストン市庁舎』 フレデリック・ワイズマン

あらゆる社会問題の数だけ仕事があるとも言える、ボストン市役所の仕事の舞台裏を映し出した、4時間半のドキュメンタリー。
ここで映し出されている事で最も象徴的なのは、どの局面でも繰り返し「話し合う」シーンだ。
多人種がひきめきあうボストンにおいては、「違い」がある事が前提条件として人々に認識されている。
だからこそ、どれだけ遠回りに見え、面倒臭くても、話し合いをし続ける。それによりそれぞれがより幸福になり、結果的に活力を生むことに繋がることを知っているからだ。
そのために職員たちが地道に地道に実行し続けているさまは、今の日本の自公維新に代表される姿とは真逆の、筋の通った民主主義を信じる精神が垣間見えるだけに、その対比として異様に感動をしてしまう。
私たち全員の幸福のためにあるのが、政治であり、民主主義であるはずでないのか。
トランプ政権下で撮影された本ドキュメンタリーへ込められた、巨匠ワイズマンの静かな怒りと、民主主義を信じる熱さを終始感じた。
自助という言葉がまかり通る日本でこそ、多く観られて欲しい。


『GUNDA/グンダ』 ヴィクトル・コサコフスキー

演出も、音楽も、ナレーションも、人間の存在も(一箇所除く)一切出てこない。
ただ豚しか出てこない、削ぎに削ぎ落とされたモノクロームのこの静かなドキュメンタリー作品の中には、生きるもの全てに宿る輝きと、懸命さ、残酷さ、悲しさ、そして美しさ、その全てがあった。
この母と子の豚たちの日常から何かを読み取って行こうと、自分のセンサーが徐々に高まっていく体験がとかく心地良い。どれだけ自分はただ与えられるだけの分かりやすい表現に甘やかされてきたか、が良く分かる。
その時間を経て、いよいよ母豚と子豚たちのブヒブヒが会話のように聴こえるようになってくると準備はOK。
母豚の後ろ姿を見るだけで、きっと胸が苦しく締め付けられるはず。


『偶然と想像』 濱口竜介

現代の恋愛会話劇として、こんな最高な作品が日本で存在しうるのか、という幸福感。
緻密でグルーヴ感ある脚本が本当に見事で、そこにエリック・ロメールのような軽快さと、ホン・サンス的なカメラと反復構造、小津安二郎のパロディかとすら思えるテンポとユーモアある会話が加わり、その豊かな映画的背景とクオリティに観ながら嬉しさがこみ上げる。
そしてどこをどう見ても濱口作品でしか味わえない役者たちによる、偶然と想像が現実を超える奇跡のような瞬間の訪れ。
小さな作品ながら、映画を観ていて、今年一番幸せな気分になった作品。こういう作品にまれに出逢えるから、映画を見ることは辞められない。

『17歳の瞳に映る世界』 エリザ・ヒットマン

「男だったらと思う事は?」
「いつも」
このオータムの返事が、頭からこびりついて離れない。
原題「Never Rarely Sometimes Always」の意味を知る時の胸の苦しさ。
エリザ・ヒットマン監督は、若年層の中絶にまつわる背景や、どこへ行っても若い女性に一定数取り巻いてくる男たちの存在と問題について糾弾するわけでも、答えを出すわけでもない。ただただ彼女たちの存在を肯定し、そばで見守り、静かに代弁をする。
その扇動を排した映し出し方の静かな真摯さに、知性と世界中の彼女たちの未来を感じた。エリザ・ヒットマン監督、これから先注目して観続けていきたい。


『春江水暖』 グー・シャオガン

「時代の移り変わり」という普遍的なテーマを、山水画をインスピレーションに、中国の広大な川の流れというマクロな視点と、大家族の変化するさまというミクロな視点で交差させ、映し出していく。
まずこの着想が、今の中国でしか撮ることの出来ないものとして、圧倒的に素晴らしい。
川へ飛び込み、泳ぎ、そして川辺で歩きながら芝居を再現する恋人たちの風景。それを川からの横移動の目線で見守る長回しの、何という優しさ。
あの幸福な時間が流れつづけるロングショットだけで、映画の歴史を更新していると思う。


『オールド・ジョイ』 ケリー・ライカート

ケリー・ライカートの存在は、ファインダーを通じた「観察者」というものでなく、「もうひとりの見えない登場人物」という気配がある。
どんな共感や理解の深め方をすると、こんなにも作品内に「同化」が出来るのだろう。
世界中の、あらゆる名もない見過ごされてきた者たちの漂流の旅を、こうもごく自然に同化するような目線で見つめることのできる現代の作家は、ケリー・ライカート以外あまり思い浮かばない。前述のエリザ・ヒットマン監督もそれに当たるかもしれないけれど。
ヨ・ラ・テンゴのブルージーで流れるようなギターサウンドから、森の音、川の流れる音、鳥のさえずり、そして最終的には温泉の流れる音へと移り変わっていく音の映画でもある。
うつらうつらと意識を漂わせながら、定期的に劇場で観つづけていきたい作品。


『ノマドランド』 クロエ・ジャオ

『ザ・ライダー』でのドキュメンタリーとフィクションとの境界線が溶けてしまうような表現で、一気に虜になってしまったクロエ・ジャオ監督。
長い長い時間の積み重ねを感じさせる、雄大で寡黙なアメリカの自然。
そこに重なるルドヴィコ・エイナウディの美しい音楽。
これほどアメリカ的な風景を伝えきる作家がアメリカ人ではなく、その人種的アイデンティティから必然的に外部的な目線を持った中国人監督であるクロエ・ジャオというのが、面白い。
だからこそ、というべきなのかもしれないが、ノマドの在り方を「降りた人、落ちた人」というだけの視点でなく、主体的にノマドを選ぶ視点も描かれている点に公平さを感じた。これもクロエ・ジャオの外部目線的な立場があるからこそ、な理由なのかもしれない。



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