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僕と『侵してくる異物』

生活、しているとものすごくだるくなって、何故こんな営みをしなければならないんだろうとか、何故こんなに気が滅入るんだろうとか、そのいちいち心の奥から沸いてくる小さな観念がとても煩わしい。

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 煩わしいのは嫌いだ、特に細々とした作業/出来事が嫌いだ。こちらの準備もお構いなしにそれは、僕の脳へと土足で到来しては茶を出せとつばを撒き散らして叫ぶ。その度に僕はデスクから離れて、水を沸かしたりそれが撒き散らしたつばを拭いたり、その合間ずっとそれの事を考えなければいけなくなる。

 そういう細々とした事変の大元が自然現象やランダムなアクシデントなら許容できる。具体的に言えば突然の雨、いつもより長いエレベータの待ち時間、プリンターの紙詰まり。そういうのは偶然で起こる――正確に言えば原因がちゃんとあったり予測できたりするかもしれないが、少なくとも僕の観測するうちではランダムな現象だ。

 困るのは意図的に起こされた事変だ。つまり人間によるもの、意図があるもの。電車の混雑、人ごみに行列、こちらの気持ちに関係なしに強いられるちょっとした仕事や義務。

 何らかの意思によって起こる僕への要求が、個人的に非常に不愉快に感じる。そんな事気にしない人が大半だろうけど、僕は激しく不快だ。僕の頭の中に許可無しに這入らないでほしい……!

 何故ならそれは僕に対して大変に失礼な事だからだ。誰だって自分の家に名も知らない人が土足で上がってきたら怒るだろう。僕の場合それが脳内にも適用されるというだけだ。言い換えれば、僕の領域に入るにはある程度しっかりした礼儀が必要なのだ。

 傲慢な考えだと思うだろうか? しかし僕自身、人に声をかけるかどうかは慎重に判断する。自分の行動が、存在が、誰かの迷惑になってないか常に(時々によって程度差はあるとはいえ)気を配っている。

 あくまで個人的に思う事だ。当たり前だけどこれを他人に強要はしないし、煩わしさが僕の逆鱗に触れようとも僕は必死に腹の中に抱え込み我慢する。いちいち怒っていたら疲れるし社会にはいられない。

 僕は大抵の物事には寛容なふりをしている。つまり非常に神経質なのだけれど、それが普通の人に比べ異常だと分かっているから誰かに表明もしないし、気にしないふりをしている。

 意識の表層にそれが――不満や怒りが浮かんでこないよう、必死に押さえつける。

 頑張って善人を演じている――善人でありたいと思うし、邪悪に堕ちたくないと辛いたびに踏ん張っている。だが、やっぱり僕は演じてるのだろう、善人のふりとその心自体を。

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 社会の様々なことを見ていると、どうしてあんたたちはそんなに我慢できるんだと不思議に思う。

 ああ、分かってる。「人間誰しも不満とか怒りとかそういうマイナスな感情を抱えていて、それを隠して生きている」って。

 僕はその位置にすら立ててないのだ。邪悪を隠していれば、僕以外の人だって心の中に爆弾が育っていくだろう? それをどう解消している? 何故それができる?

 疑問で仕方ない。
 嫉妬もしてしまう。

 その「異なり」について考えるたび、もしかしたら、と思う。つまり、人間というものを概念として捉えたとき、大勢多数の君達は人間であり、実は僕は人間ではないのでは?

 だから今は、社会の全てがすべからく動物園に見えている。


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