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【雑記】もしかしたら大切な事を忘れていたのかもしれない

とある機会があって、自分の人生を振り返る事があった。

振り返れば、私の人生にはたくさんの出来事があった。当然その中には、私の未熟さゆえに、多くの人々を傷つけ、不快にさせ、その関係を不可逆的に破壊した事もあった。

様々な事を経験し、その度に私は心をうまくコントロールする術を模索していった。観察し、省察し、改善し……そうして自分の苦しみを無くす手段を身に着けていった。

しかし時折それが本当に正しい事なのか分からなくなる。俺は社会に迎合するために、俺の中の自分らしさや思想・意志を無理やり潰して、自分自身をゾンビに――何も考えないゾンビに改造していっているのではないか?と。

つまり俺がしているのは、『考える事をやめて、消極的に生きる』ことで、それは道徳・正義・倫理……とにかくいろんな面で非人間的なんじゃないか?換言すればニーチェ曰く、『超人』の真逆にいっているんじゃないか?



いまこうして自分を省みているのには理由がある。

最近新しく、色んな人々と出会う事が多くなった。大学を出てから私には友人と呼べるような人々の縁が無かった。だがインターネットによって、それまでは想像もつかなかったような人達と出会うようになった。インターネットなんてクソ食らえと思っていたが、こういう離れた人の縁をより合わせる役割を果たしてくれるのは、良い事だなと思う。

縁が遠かった人達ではあるけれど、性質としては近しい人々である。語弊を恐れず言えば、感受性があり社会に適合するのに苦労しているような人達である。言わずもがな、私もその性質をもつ一人だ。

ただ私は、その感受性や繊細さを、社会で働いていくうえで『完全に邪魔なもの』と考えている。そしてそれゆえに、働くようになってから自分の内にある『それ』を必死にすり潰す事に躍起になっていた。

もちろん感受性・繊細さを持ち合わせつつ社会的に評価されている人もいる。しかしそれは非常にレアなケースで、その足元には、夢ついえ敗れていった亡骸が数多積み重なっている。あるいはその代わりに陽の元へ戻っていった流浪人か。

とかくこの陽の元で生きる以上、感受性や繊細さは致命的な弱点となり得る。残酷だがこれは事実で、私はこれを認めざるを得なかった。

だが最近分かり始めてきた。

私が見切りをつけたそれらを、大切にしている人達は、美しいのだ。人間らしいのだ。

私は大切な事を忘れていたのだろうか?

かつて小説家を、あるいは芸術家を目指していた時、目標としていた事がある。私は15歳と22歳の時に自殺を考えた。そんな苦しみを抱える子供たち、またそれに似た様々な苦悩を抱える人達を、救う一助になるような作品を書きたかったのである。

もちろん人が死ぬのを止められる人はそうはいない。人は他人を生かせない。生きる助けをするしかできない。

でも、だからこそ、私は祈って生きてきたんじゃないだろうか。『どうか、死なないでください』と……。

もしかしたら俺は本当に大切な事を忘れていたのだろうか?


観察し、省察し、改善する……心の揺らぎをコントロールする術、苦悩をやり過ごす方法、それらを身に着ける事は正しい。しかし私がしてきた、生来のものをすり潰し、哲学的ゾンビとして生きる事は、果たして私の生き方において正しいのだろうか。いや、正しくないはずだ。おそらくその生き方は、やがて私に取返しのつかない災厄をもたらすに違いないのだから。

孔子曰く『三十にして立つ。四十にして惑はず。』とも言うが、この意を私は『30年40年も立たなければ、人は心の迷いを克服する事はかなわない』だと思っている。

私はどうやらまだ迷い続けるらしい。

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