見出し画像

#9 サニー 5



 
 三十分程走らせたところで、急に景色が拓けた。

 そこにあったのは、紛れもない幼少期の、あの海だった。

「海だ……!」

 僕は思わずヘルメットを取って叫んだ。

 道路は海岸に沿っていて、歩道の先の柵の向こうに、あの砂浜と音を立てて前後する波打ち際があった。そしてそれにおまけのように付け加えられたように、砂浜へ降りる階段があった。僕はその端にバイクを駐輪して、荷台からサニーを取り出した。
 鉢を両手で抱えて、僕達はその階段を下りて、果たして砂浜へと降り立つ事が出来た。

「サニー、これが海だよ。君は見るのが初めてだろう?」

 夕日が照らす海平線は、右から左まで定規で結んだようにきれいな直線を描いていた。海の水は藍色で、太陽の光を反射してキラキラと煌めいている。そして美しさとは正反対の、轟音のような波打が、まるでメトロノームのように定期的に前後している。

 ざざあ、ざざあ、波打ちは砂浜を濡らし、泡のようなものをそのグラデーションに残していく。砂は踏むとじゃりじゃりと音を立てて、時折貝殻や海藻のようなものがゴミみたいに埋まっている。潮のにおいが強く、遠くで汽笛のようなものが聞こえるが、波打でよくは聞こえない。

 僕達の他にはほとんどいない。遠くの方に夫婦とその子供が一塊いるだけで、人気はほとんどないようだった。自殺するには打ってつけの場所だった。

「綺麗だね、サニー。あの人込みよりも……僕達が住んでいた所よりもよっぽど綺麗だ。僕達はこれを知らなければならなかったんだ」

 僕は独りごとのように呟きながら、しばらくその光景に立ち尽くしていた。よく観察すると、波というものは遠くの海平線からやってくるようで、まるで舌を出してこちらへ走り寄ってくる柴犬のように波打ち際へと辿り着こうとする。そして悲しいかな、辿り着いた途端に波は四散し、破壊され、波打ち際の往復の力の糧にされる。僕はその現象が不思議に感じて結構長い間、波打ちの前後を観ていた。

 遠くの方では三人組の家族の声が聞こえてきた。彼らは親子睦まじく、ボールを打ち合って遊んでるみたいだった。

 しばらくしていると数メートル先に、崩れかけの木造建築物があるのに気付いた。いわゆる海の家のなれ果てのようで、堤防にもたれ掛かるようにその建物は半壊していた。入口のところで木材が崩れて邪魔をし、看板は錆びて何と書いてあるか分からず、残りの建材らも腐ってるみたいに青黒い表情をしていた。
 当然中は無人だ。

「サニー、崩れかけた海の家があるよ。僕達はちょっとそれを利用させてもらおうか」

 利用するといっても、中に入るわけではない。家の影に入って隠れるだけだ。裏手側に回ると別段何があるわけでもなく、使い古した釣り竿が何本か立てかけてあり、裏口とかびの生えたポリエステルのバケツが転がっていた。

 僕は堤防を背にしてそこに陣取る。

「ここなら建物が壁になって、僕達の様子が見えないはずだ。ただ砂浜のど真ん中に座っているよりはいいんじゃないかな。僕の計画を邪魔されては困るし、今から自殺する人間に出会うというのは見つける側も困るだろう」
 そうして、僕はそこに居を構える事にする。

 石垣を背にして、ブルーシートを敷く。適当な飲み物だとかを敷石にして、まるで花見のような形となる。そこに僕とサニーは座り込んで、打っては返る波のメトロノームを眺める事にした。

「宴会を始めよう。サニー。最期の晩餐だ。いや、最期の晩餐は昨日行ったんだったね。そうだったな。どうでもいいか。取り敢えず乾杯しようよ。サニー」

 僕はリュックサックから缶チューハイを取り出しながら言った。既に時刻は四時半を越えて、もう夕方になる頃だった。
 今日持ち込んだ荷物には多少の酒の他に、スナックや総菜など、腹八分にはなる程度の食べ物も入れてあった。 それを広げ、缶を空ける。ぷしりという、小気味な音が砂浜に響く。

「乾杯」

 僕はサニーにそう言ってごくごくと酒を胃に流し込んだ。中時間のツーリングだったから身体は結構な疲労感で、アルコールが強く身体に染みるような気がした。ざああ、ざああ、波打ちがそれに拍手を打っているみたいだった。

「食べ物を食べると、睡眠薬の吸収が遅れるかもしれないね。サニー。あるいは早くなるのかもしれない。どうでもいいね。サニー」

 僕はスナック菓子を頬張りながら、リュックサックに閉まってある睡眠薬を取り出した。

 錠剤の睡眠薬が六十個分あった。これは、僕が心療内科で手に入れた分だった。本当はそういう症状はほとんど無かったのだが、わざと医師に不眠の症状を訴え続けた。結果一年もすると大量の錠剤が手元に残った……人を殺すには十分なほどの量が。
 一般的に自殺の方法は多岐に渡る。高い建物からの落下死だったり、電車への飛び降り自殺だったり、密室で練炭を焚いて窒息死する方法もある。単純に首をつってもいいし、車道に飛び出しての轢死、餓死という方法だってあった。結局、僕は睡眠薬の大量摂取という方法を選んだ。僕は思い出の場所……子供の頃の記憶にあるこの海を、実際に見ながら死にたかったのだ。

「ねえサニー、ここはおれの思い出の場所なんだよ。分かるかい? 君が産まれるよりもずっと前に、おれはここで遊んでいたんだ」

 十五年前以上前に、幼少期の僕がここで無邪気に遊んでいたと思うと、何だか不思議な感じがして、僕は地面の砂を一握りした。潮の香りがひらりと宙を舞い砂は手のひらにこびり付いて僕と同化しているようにみえた。

 死ぬのは怖かった。

 死ぬために計画を練り、ある程度の努力を働いたのにも関わらず、死ぬ事に恐怖を感じた。だが、酔いがある程度それを弱めてくれた。僕はわざと度数の高い酒を飲み、自分の恐怖心というものを何とか克服しようとしていた。

「サニー、おれはこれから死ぬよ」

 チューハイのロング缶が二本空いた。時間は一時間を過ぎ、太陽は背中側の地平線へと沈もうと躍起になっていた。その様子が、海面の煌めきを通して僕に伝わってきた。

 海は、きっと僕が産まれる何千年も前から、そんな顔をして繰り返し波を前後していたのだろうし、僕が死んでから数千年はそうやって、今と同じように波を前後させるのであろう。泡にまみれ、時に海藻や海月を砂浜に残すという残酷さも見せ、しかし、変わらぬ現象を表し続けるのだ。誰に向かって? 誰でもない、己自身なんだ。

 僕は、泣いていた。

 とめどめもなく、涙があふれ続けていた。

 海は、そして自然は、どうしてこんなにも美しいのだろう? 何故、ただの塩辛い水が、こんなにも美しい現象を見せるのだろう。大量の水が――巨大な自然が、どうしておれ自身の心をこんなにまで震わせるのだろうか

「僕は、美しく生きたかったんだ。サニー」

 僕はサボテンに話しかけながら、錠剤を袋から取り出す。文字が印刷された鈍い橙色のそれは、死への片道切符でありながら一種幾何学的美しさを見せた。

「世界は、嘘と欺瞞だらけだ。けれど、死だけが本物なんだ。サニー。君も死ぬし、僕も死ぬんだ。そして、変わらぬものこそが美しいんだ」

 夕日が力強く輝いているのを感じた。
 海はその光を同じくらい力強く反射し、蠢いていた。

「僕は、嫌いだったのだろうか、サニー。優れた兄と姉。父と母。劣った僕」

 僕は十錠、睡眠薬を手のひらに開けると、チューハイで一気にそれを流し込んだ。

「僕は、僕自身が劣ってると認識したくなかった。東京は、社会は、現実を、それを、強烈な津波で僕を襲った」

 やがて、鉛のような倦怠感が僕を襲った。僕は重い手でもう十錠、片手に開けると酒で一気に飲みこむ。

「この世界には情報が溢れすぎている。なあサニー。僕が自分の無力さを、その情報量で知る事さえなければ、僕は一生幸せだったんだよ。」

 サニーは、僕の言葉を一心に聞いて、その針を震わせてると思った。

 吐き気が僕を襲った。
 初めて感じる感覚。
 きっと大量摂取による薬の副作用だろう。

 しかし止めるわけにはいかない。僕は必死にもう十錠、袋から開けるとアルコールで飲み込む。

「果たして、サニー、人間は知る事が幸福なのか? 君は、美しい。何故なら、知る事の器官を持たないからだ。耳も、目も、鼻も、そして、僕はそれが死ぬほど羨ましい」

 狂いそうなほど脳髄が鉛のように固まってる。
 僕は気絶しようとしかけているみたいだった。
 手は痺れているようにも、元通り動くようにも思えた、というよりは、手の重さすらも僕自身が感知していないようだった。
 僕は最早半自動的に十錠、手に開けると液体でそれを体内に流し込む。

「僕は、何にでもなれる気がした。自分が、世界に誇れるような素晴らしい事を成し遂げて、栄誉と幸福を、得られると信じ込んでいたんだ。本当はそんな能力はないはずなのに」

 太陽が煌めいている。
 海の上下が轟いて目が痛い。
 それは世界のどんな景色よりも美しかった。
 僕は涙と鼻水を拭きながら、残りの二十錠を手探りで探った。

 地平線の上側の天蓋は既に、喜びという油絵具をキャンバスいっぱいに伸ばした後に、藍色のアイロニーを上から順に混ぜ合わせ作られたような、オレンジ色から紫色へと変貌をしかけている。
 そして、その油絵の向こう側に小さい点のような星の光が、実は無数に散らばっているのが、辛うじて僕にも分かった。

「おれは、怖いよ。サニー。死ぬのが怖いよ。でも、死ぬしかないんだ。僕は様々なものを失い過ぎた。未来も、希望も、夢も。概念的なものよりほかにも、恋人や友人、仕事や能力、様々なものを失ってきた。サニー。僕はくらやみに支配されていくんだ」

 ばたり、と背中に衝撃が走った。
 僕は、倒れたのだ。
 座ってる状態から上体を地面に打ち付けたらしい。
 しかし僕は歯を食いしばって身体を何とか起こす。
 既に耳は聞こえない。
 聞こえているとしても、それを情報として判断しないのだ。

「くらやみに殺される前に、僕は僕自身を終わらす。怖いよ、サニー。くらやみがやってくる。もう脳みその目の前そのものだ。でも僕は飲むんだ。僕をもう失わせはしないんだ」

 最後の十錠、飲む。
 こみ上げていた嘔吐感は、既に収まりかけていた。
 その代わり耐えがたい程の苦痛が僕を襲った。
 ――いや、苦痛ではない。
 安らぎを想起させる程の睡魔だ。
 安楽という概念をかなぐり捨てた、ハンマーのような殴打が。
 ざざあ、ざざあという原始の海の光景が身体の中に入ってきてありありと見られた。

「サニー、君だけは、君だけは僕の理解者だったんだ。この情報の渦で、真実は君だけだったんだ。死とサニーだけが、本物だったんだ。」

 僕は彼女を抱きしめる。
 痛みなんて、彼女自身の針の鋭さなんて感じない。
 ただ、
 ただ、

「だから僕は君を抱きながら死ぬんだ。サニー。サニー、君だけは、君だけは」

 僕はサニーを抱きしめながら最後の十錠を飲んだ。

「君だけは僕の太陽であってほしい」
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?