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#9 サニー 3


  3

 途中でスマートフォンに電話がかかってきたが、これを僕は無視した。これは完全に忘れていた事なのだが、僕は今日メンタルクリニックに予約が入っていた事をすっかり失念していたのだ。隔週の土曜日十六時に通院していたが、今となってはどうでも良い。これから僕は自殺をするのだから。


 遺書を書き終えて僕は、買い物のため外へと出た。
 憂鬱な気分を晴らしたかったのが大きな理由の一つだが、もう一つ、僕にはやるべき事があった。それはバイクの試運転である。
 僕の住んでるアパートから一階に降りる。駐輪場に行くと端っこで、200ccのバイクが、まるで第二次世界大戦より前からそこにあったみたいにほこりをかぶっていた。
 しばらく乗っていなかったので心配だった。僕は恐る恐るエンジンキーを指す。何度か手こずったが、しばらくするとぶぅうんとうなり声をあげて、それは目覚めた。
 乗ってみる。
 どうやら心配は杞憂であったようだ。心地よい振動が尻から伝わって身体全体へと広がり、エンジン音はまるで老犬が身体を動かすような気怠さをはらんだ鈍く低い音で、それは僕のバイク特有のものであった。
 僕はガソリン量を確認する。ある程度はもつが明日は一旦給油しなければならないだろう。バイクがちゃんと動くか確かめるため、僕はスロットルを入れ、発進した。


 目的は最後の晩餐のための買い物である。買い物は歩きでも良かったが、明日はこのバイクで百五十キロ以上移動する予定だ、前日にちょっとだけでも走らせておく必要があった。
 アパートのある細い横道を徐行し、広い道に出る。
 僕は徐々にスピードを出していく。身体に当たる風が徐々に強くなり、それに並行するように街並みの人と光の数も増えていく。
 外に出るのは久しぶりだった。
 最後に出たのは一週間前だった。
 外の環境は僕にとって眩しく、そしてうるさかった。幸い今は、運転が世間の雑音を大幅に和らげてくれていた。


 十分ほど走って国道に出る。スピードを出し、風が引き裂かる音がヘルメット越しにも聞こえる。オレンジ色の灯が僕の正面から視界の端へ次々と飛んでいく。くすんだ排気ガスの臭いが妙に心地よくなる。この道を走るのはもう最後なのだ、と僕は思った。別に何の思いれがあるわけでもないが、それでも相応の名残惜しさはある。
 さらに五分ほど走って、僕はバイクを走らせるのに飽きると、スーパーマーケットへと向かう。
 数分後、駐輪場へと入ると、まず僕はATMへと向かった。
 銀行口座から有り金を全て引き落とす。貯金していた金はほとんど無くなっていた。たしか仕事を辞めてから七か月経っていたから、退職金も含め全て使い果たしてしまったのも無理はないだろう。僕は財布から幾つかのキャッシュカードを出し、それを片っ端から目の前の機械に差し込んだ。財布には最終的に十二万円と二千円納まった。明日の計画をやり通すには十分な金額だろう。
 それからスーパーに向かって必要なものをかごに入れていった。安物のウィスキー、ビール、缶チューハイ、明日の食糧、それから今日の夕飯としてレトルトカレーを購入する事にした。レトルト食品にワインで煮込んだ国産牛肉が入っていると銘打たれていた。とても楽しみだ、と僕は思った。


 会計を済ませバイクを出し、僕はふと、そのままバイクに乗らず、家路までをバイクを押して歩いてみようと思った。
 僕の住む街はビジネス街から遠く離れた住宅街だ。昔は町工場がたくさんあったのだが、それらはどんどんとシャッターを下ろし、やがて何の取柄もない街になった。職人は何かから隠れるように(あるいは彼らは元々何かから隠れていたのかもしれない)、姿を消し、代わりに豪華で新しいマンションがそこら中で背を伸ばし始めた。綺麗な人間と本物のインターネットが歩くようになった。 
 うるさい、と僕は思う。土曜日という事で、街は往来を歩く多数の人で賑わっていた。自転車でどこかへ行くのだろう、ヘルメットを付けた小学生の群れが何事か叫びながら通り抜けていく。腰の曲がった白髪の老人が、ぶつぶつと呟きながらゆっくりゆっくりと歩を進めてる。千円カットの理髪店からは大学生くらいの若者が出てきて、短くなった頭が気になるようで撫でながら足早に去っていく。道の端にはホンダの白いワゴンが停まり、それには介護サービス会社らしきロゴマークと名前がプリントされている。
 僕は、くすんだアスファルトを蹴る、濁った灰色の電信柱を目で追う、いつもと変わらない住宅街を肩で切る。模様が刻まれた古びた石垣を手で撫でる、雲が多くなった夕暮れを仰ぐ、その空気を鼻から一心に吸う。そうして、当たり前の事なのだろうけどこの町は僕がいなくなってもずっと動き続けるのだろうと思った。
 色んな年代の様々な職種の人間が、一種のmassとして集まって形成されている。そこが実のところ僕は好きだった。何気ない家屋に仕舞われた車の光景が好きだったし、古びたスーパーが叩き壊されて背の高いピカピカのマンションが建造されるのも一興だと思った。だからこそ、この町というものにアイロニーというのを感じずにはいられなかった。僕はこの町というmassのちっぽけな一部で、そんな部品が失われても機械はずっと動き続けるが、それでも僕はこの町の住人という事を誰かに認めて欲しかったのである。
 だからここはうるさいんだ、と僕はそこで気付く。


 はたしてアパートに帰宅した。
 僕は買ったものを整理して、早速最後の晩餐にとりかかるとした。
 パックに入った白米。買い切りのレトルトカレー。台所に揃えたのはたったこれだけである。最後の晩餐というにはあまりにも貧相であるが、僕は自殺する前夜の夕食はレトルトカレーにしようと絶対に決めていたのだ。
 まず鍋に水を張り沸騰させる。アルミホイルのパッチに入ったレトルトカレーを熱湯に入れて七分。その間に電子レンジでご飯を暖める。
 小時間暇になったから、僕は冷蔵庫から缶ビールを一本出すと、窓際に立ってそれを飲む事にした。
 プシュリ、と心地よい音が鳴る。
 少しずつ喉に流し込む。
 ふんわりと特有の麦の匂いが鼻腔をつき、冷たいものが僕の喉と胃を優しく撫でた。四肢の指に熱が行き渡り、僕はそっと目を閉じた。
 もう一口、飲み込む。
 再び舌の奥に苦いものが流れ込む。それの心地よさ、気分の良さは、僕のどこかで張りつめている心の線を、少しだけ緩めてくれるみたいだった。それは本当に助かる事だった、僕はそれが自分の頭のどこにあるのか、もう分からなくなっていたから。
 僕は窓の外を見る。
 小さい隙間の空では、夕暮れはやがて終わり、藍色の時間が流れていた。少し耳を澄ますと、隣の家屋で子供二人の話声が小さく聞こえてくる。どこの世界にもあるような日常的な会話だった。
 きっと僕がいなくなっても、彼らは無事に幸せな家族を続けていけるだろうと思った。どうしてかは分からないけど、心からの祝福を彼らに送る事ができた。おめでとう、おめでとう、さようなら。
 電子レンジがぶぅんと音を立てる。
 僕は立ち上がる。温まった白米を皿に盛る。白い湯気が顔まで届き、甘い匂いが優しく僕を包む。
 そこへ熱々のレトルトカレーをそこに流し込んだ。どろり、と赤黒いそれはまるで火山口で滞留し、弾けるマグマのように力強かった。


 果たして、我々は食卓についた。
「さあサニー、食べるよ」
 僕はカレーとスプーンを持ってデスクに行き、手を合わせた。
サニーには霧吹きで水をかけてやった。心なしか彼女が食事を得ると、球型の茎が艶めき元気になったように見えた。
「いただきます」
 それで、僕はレトルトカレーを一口食べる。舌を付くような辛さと甘さ、少しの苦みにコクのある旨さ。申し分ない、最高の最後の晩餐だった。
僕は夢中でカレーを食べる。それに呼応するように額と鼻の頭に汗の玉が一つずつ浮かび上がっていく。細胞に栄養が満ち満ちて歓喜の声を上げる。
 肉は加工品のような不自然な柔らかさだったがジューシーで美味く、カレールーはほどよい辛さでとろみがついていた。白米も申し分のない、白くてつやつやした米だ。
 うまい、と何度もひとり言を言った。それは確かにただのレトルトカレーだ。米と数百円のパックで作れる簡単な食事である。だがこれこそが僕の求めていたものだったのだ、最後の晩餐には絶対にレトルトカレーでなければならなかった。
 僕は、レトルトカレーが好きだった。それは、僕にとっては普段は食べられない特別なものだからであった。家では母が料理を作っていて、それは大抵農場で取れた作物のうち形の悪い余りものだったり、あるいはスーパーで買った普通の肉だったりした。兎にも角にも食物にありふれてるから、僕達がレトルト食品を口にするのはごく希な事だった。子ども時代に食べるカップ麺やレトルト食品は、裕福な家に育った僕にとっては、食べたくても食べさせてもらえない特別なものだったのだ。母と父の帰りが遅くなくて、かつ食材の都合が無い時、僕達は仕方なくレトルトカレーを食べる事になるわけだが、その瞬間が僕にとってとてもわくわくしたし、二、三百円のカレールーは普段口にしない不思議な味で物凄くおいしく感じた。
 上京してからは僕は自分で食事を用意しなければいけないわけで、時折はカップ麺なんかで済ましてしまう事もあるが、レトルトカレーだけはなるべく食べないようにしていた。それは何だか『聖域』のように感じるのである。
 だから、死ぬ前の夜はレトルトカレーを食べる事にしていた。


「ごちそうさま」
 あっという間に僕はカレーをペロリと平らげてしまった。
量は一般的な男性の食事量よりも若干少なかったが、精神はこれ以上ないというくらい満ち足りていた。
 それから僕は食器を片付けて、また少し酒を飲む事にした。先ほど開けたビール缶を一本空け、さらにもう一本飲んだ。胃が熱くなり、全身が火照った。悪い気分ではなかったが、良い気分でもなかった。
 映画を見ようとふと思った。
 ネットに残っていたほんの少しの金で、僕はとある映画をレンタルした。僕は机の横に数本ビールやチューハイを用意して、飲みながら鑑賞する事にした。
 それは暗い映画だった。六十年代のソ連とアメリカの冷戦時代の時を背景としていて、核戦争が間近に迫っているようだった。六十年代の音楽が流れ、様々な男や女が出てきた。隠れるように生きる臆病な男、犯罪まがいの行為をして悪人を退治する男、不幸な事故から異様な姿と力を手にした青年、様々なテクノロジーを開発した成功者の天才、母親がレイプまがいの行為をされたせいで産まれた女。物語は進み、様々な人間の様々な感情が動く。物語の最後で、正義が執行され、世界は平和になったが、数人の意思は霧のように消されていった。自らの意思を絶対に捻じ曲げず信念を保ち続けた男は、無残にも超越的な力によって敗北した。儚い、と一言そう思った。人にはいろんなひとがいる。そして、世界と戦い続けしかし敗北した男と、自分自身が重なった。


 エンドロールを聞きながら僕は酒を呷った。
 既に酩酊を越えるレベルの酔いだった。
 夜は既に更けていた。澄んだ宵闇の風が窓から吹き込み、外からの物音は何一つ聞こえなかった。人々は息を潜めて太陽が昇るのを待つ。それは動物も同じのようで、野良猫や虫の声も一切鳴り響かない。まるで誰かから命令を受けているかのようにだ。
僕は目を閉じる。
 僕は、この世界には何も未練がないと思えた。何かを楽しいと思っても何かを面白いと思っても、その感情はすぐ失われてしまうのだ。それが、身体の中にあるものを失う事よりも、はるかに悲しかった。得たものすらも、すぐ煙草の煙のようにかき消えて、喪失感ばかりが僕を支配するのだ。
「サニー、そこにいるかい」
 ぐるぐると天井が回っていた。僕は脳がシェイクされているような気分で、彼女に話しかけていた。今の時刻がいつぐらいかは分からないけれど、少なくとも深夜である事は確かだった。ベランダの向こうの家からは物音が一切無くなって、漆黒の闇は外界と生物全てを支配している。
「サニー、死ぬ時は一体どういうものなのだろう」
 僕はサボテンに話しかける。それは、とても静寂なくらやみのように感じられた。隣の家の生活音だって、町の往来だって、そして僕自身の感情だって、何もない、完全なる夜のようなものだった。
「きっと光も音も、匂いもなにも無いのだろう」
 僕は、自分が、自分自身が、自殺する事について考えてみた。
 それは、とても残酷な事だった。僕は死にたいなんて思っていないからだ。僕はただ、何も失いたくはないのだ。これまでの人生で大切なものをたくさん失ってきた。夢、希望、恋人に友達、みんな僕の元から離れていった。それは僕自身にも原因があっただろうが、それよりも強大なものが僕の運命みたいなものを支配していたからだ。強大なもの、この世に流れるエネルギー、川の流れに混じる一筋の血液のような朱色の力が、僕の周りのものを、僕から引き離している。
「サニー、おれは死にたくない……死にたくない。でも、もう駄目なんだ。駄目ってラインを過ぎたんだ……もう……」
 それは誰だ? 何者だ? 問いても問いても解らない。ただ言える事は、僕はもうそいつから何も奪われたくないという事だ。僕は自我さえも、そいつに犯されてしまった。これ以上、僕の大切なものを失くすわけにはいかない。だから死ぬのだ。死ぬしかないのだ。死ぬしか。
「サニー、僕はね……」
 そして、僕は気を失うように眠った。
「もう何も失いたくないだけなんだ」

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