雑記其の二:哀愁と曇天のコンビネーション

 長時間の睡眠は時として害になる。
 先日、九時間半ほどの眠りから覚めた時、僕は自らの自我を失いかけてしまった。
というのも直前まで夢の中にいた僕は、月山馨瑞としての僕ではなく、別世界での何かしらのロールを演じていた僕(確かその時はアメリカでインディ・ジョーンズのような冒険をしていた)であったから、急激に与えられた現実の感覚は劇薬だったのである。
 結果として僕は現実を現実として受け止める事ができず、今いる世界が逆転して、夢の中の空間か何かのように感じるようになってしまった。その直後に会った先輩らや友人達も、まるでスクリーンを通して見る違う架空の世界の住人のように感じられて、酷く混乱した。ここはどこなのか?分からなくなって僕は文字通り頭を抱えた。あまりにも奇妙な感覚だった。


 時々、いや、よくこの社会を生きる事がどうしようもなく億劫になってしまう事がある。大学生活というのは、世間で思われているものよりも酷く大変で、面倒なものだ。クリアすべきタスクは多量で意味を成さないように思える。
 自分の未来を見据える事ができない人間は特にそうだ。現在やっている事が目指す夢とはまるで関係なくて、ただ未来の生活を安寧にする為だけの行為を、有りたがる事は僕には難しい。どうしようもなく億劫で、とてつもなく哀しい。そして、時間に対してあまりにも冷たい寂しさを感じるのだ。


 四日ぶりに家へと帰宅して、疲労ですぐ眠ってしまった。とはいってもいつものように電気を点けっぱなしにしてすぐに眠りに落ちてしまったから、睡眠の質は浅かったし四時間後の二時には目覚めてしまった。
 その時も何かしらの夢を観ていたのだけれど、起きた瞬間には忘れてしまった。前回の睡眠とは違ってすぐに自分を思いだす事ができた。
 その後、ラジオを聞きながら何もせずにただゲームや本を読んで過ごした。ゲームを続けて二時間半もやったのは久しぶりだった。旅行に行く前までは様々なタスクに追われて息抜きもままならない状態だったし、旅行中は色々な事があってゆっくりとした時間を送れなかった。だから、こんなにもリラックスした感覚が意外で心地よかった。
 その時久しぶりに僕は自分の時間を過ごしているという実感を持った。まるで時間が優しさを持っているような気がした。


 本を一区切りまで読み終わって、ふと散歩に出かけたくなった。何となくの、ただの気まぐれだった。
 スマートフォンにヘッドフォンを繋げて、ラジオの音楽をじかに感じるようにして、僕は身支度を整えた。外に出ると八月にしては異常に寒く、小雨が降っていたのでパーカーを着てヘッドフォンの上からフードを被り、果たして外へと出直した。


 パーカーのフードを意味も無しに(この時は多少意味があったのだけれど)かぶりたがるのは僕の子供っぽい悪癖だ。こう『ぶっている』恰好を今現在の僕はあまり好んでいない。けれど、この時ばかりは他人の視線をどうにも思わなかった。上手く言い表せないこの雰囲気を、兎に角僕は求めていた。


 曇り空の下、ラジオから流れるハウスやジャズを聴きながら兎に角先を考えずに歩いた。涼しい空気を頬で感じながら、早朝の空気を味わった。どこの道を歩こうだとか、この後どうしようだとかは考えないようにした。今だけは、そんな事を考えたくはなかったのだ。ただ、風に導かれるように僕は歩いた。犬の散歩や、朝早く会社に向かう者と擦れ違った。様々な人が、様々な目的を持って、または持たずに歩いていた。


 自由とはこういうものだと思った。思考にも未来にも、過去にも縛られず、ただ歩くという感覚。そして、我々はこういう感覚を時々感じて行かねばならないのだと思う。我々はそういった事をずっとしないままでいると終には壊れてしまうからだ。
 タスクを熟し続けていると、我々はついそれが持つ意味を見失ってしまう。いや、その行為の意味は存在しないのかもしれないけれど、兎に角自分を騙し続けている幻想を、多忙の連続によって失ってしまったら我々は――少なくとも僕は動けなくなってしまうのだ。
 幻想によって僕は支えられている。君はどうだろうか?


 兎に角、我々は生きなければならない。生きるという事は苦しくて、どうしようもなく虚しいけれど、内なる炎をそのせいでかき消されてしまえばそこでおしまいだ。結末を目指して、ただ歩み続ける。そう思えるような幻想を、これからも抱いていきたいと思う。また、思えるような自分でいたいのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?