さよなら絵梨 感想

さよなら絵梨 感想

よく分からなかったとか、つまらなかったなんて、適当なこと言われるとむかつくから、自分でこの漫画の感想を言語化することにした。良かったとか、エモかったとか、そんなどうとでもとれる言葉でこれを形容したくなかったからだ。

2回読んだ。最初が公開当日で、二回目が今。まず言えるのは物語の受け取り方が全然違うに驚いた……。何というか、丁寧だった……いや違う、適切で、かつ素直であったというべきか。

最初読むとき、当然僕はこの物語の全容を知らないままに、どうなるかわからないまま読むことになる。だから最初の感想は、唐突なシーン(あるいは時間軸)の切り替わりとか、メタとかメタのメタとかに意識があった

――飽きさせないのだ。次のページを読みたくなる漫画だ。この誘導は悪く言えば強引なものだ。物語の位相をぶちあげたり(この作品では主人公が撮っていた「コマ」が実は映画だった、と見開きて唐突に展開しているところとか)行き来したりしてるからだ。そういう意味合いで、この漫画はある種現代的だと思う。ジャンプラで見ることを意識して書かれている。

飽きさせない、というのが良いことが悪いことか、というのは置いておいて、初読のときの感想は、とにかくすごいものを見させられた、という感じ、だった。読ませられる、読ませられる、引き込まれる、引き込まれる、コマ割がほぼほぼおんなじこと、主人公の一人称視点で描かれてること――それが、素晴らしくベストマッチしていた。それが、メタ的な位相の誤魔化しと感情移入の強度に影響しているからだ。

物語の詳細については書く必要はないだろう(それはとてつもなく退屈で苦痛な作業だ)。

最初の爆発のシーンと最後の爆発のシーンが、同じであり、物語と主人公の問題解決カタルシスを生み出した――構成に関して強いて言えばこの部分くらいだろう。続きが気になる唐突な展開……と見られつつも、全体の起承転結ははっきりしている。それこそハリウッド映画論に近い話だ。

そういう意味では「さよなら絵梨」は商業的な作品だ。そもそも扱っている「爆発落ち」なんて商業主義の典型例だし。立ち返ればこの漫画にだって原稿料やら予算やらが用意されてる。

つまりどういうことか、この漫画はやはり読んでもらうことを前提に書いている……まるで多くあるエンタメ映画のエッセンスを適切に入れているんだ。スマホ時代コンテンツの飽和時代、ひとは生半可なことでは数百ページの漫画を一から十までよんではくれない。そんなエネルギーは費やせない。そういう現実的なバリケードを巧みにこの作品は超えている。その巧みさと気軽さがまずすごい。

そしてさらにすごいのが、そこに藤本タツキ特有の純文学性もあること。二者択一かと思われてる商品と芸術の二律背反の壁を取っ払い、混ぜこぜにさせてる、そこが良い。

二度目に読んだとき、意外だったのは、描写がものすごく丁寧だったということだ……なんというか、自然で、素直である。「映像を撮って」という母と主人公の会話に対する、父親の表情、初読はなんかへんで笑えたんだけど、二回目はその意図が分かった。藤本タツキの絵柄はそこらへんがうまく処理できないと思ってたけど、その問題点はもはやこの作品には存在してなかった。

唐突だがそれ故に読ませられる展開、最初はそう思っていたが二回目のとき、それは力技なんかではなく自然で丁寧な描写に裏付けられていたことに気付く。絵梨が病院の事情に詳しいこととか食事を食べても太らないこととか、唐突な展開と思いきや無意識の刷り込みによって、それは筋が通ってると認識させられているわけである。

この点の重要なところは、それがわざわざ作為的に行われてはいないところである。計算してこの段階でこのセリフを入れとこうとか、こういうことを言うと矛楯するから変えようとか、そういうシステマティックな、理論的なことをしていない。むしろ無意識に――「素直」にそれを描いている。それか自然でメタ構造という高度な物語の鉄線となっている。

ところで二回目の時に、コマとかキャラをどこまでコピペしてるか、気にして読んでみた。キャラクターの微妙な心理の表現をするためには、アンチコピペが必要だから。
意外としていた。だがしているところとしていないところの違いには明確な意図があった。とこでキャラクターの表情の変化を描くべきか、そして描かないべきかの判断をしっかりとなされていた。そこに、物語の基礎としてのメリハリが助力していると思う。

最後にメタ構造について。藤本タツキはよくメタ構造を使う。メタ構造は「夢オチ」みたいなものだ。それがあれば何でもOKになってしまう、そういうかなり取り扱い注意な危険物である。

この作品においてはメタを超巧みに動かしている(ぎゃくに言えば、ファイアパンチとチェンソーマンではしくじっている箇所がある)。

メタ構造が厳密に定められてるわけではなく所々曖昧なのがいい。「ここはどこの位相なんだろう」と読者を揺り動かせるわけだから。そしてただ曖昧ではなく、重要な点で一気に飛躍……ぶち壊すところがかなりいい。

この構造のぶち壊しこそが、この漫画の特長、ひいては藤本タツキ野、純文学性につながってるように思える。

ルックバックでもそうだったけど、漫画の特異性を作者はかなり革新的な試みで突破している。扉を隔てて、4コマ漫画の紙片を現在の版から過去に供える事も、クライマックスでヒロインが生き返るのも、なんの脈略もなく廃墟か爆発するのも、現実的論理ではあり得ない。アニメや映画でも、このような表現をするのは難しいだろう(最近サウスパークでこれについての試みはあったが)。

その論理的飛躍を簡単?にこなしてみせるのが漫画の強いところだろう(こういった試みは手塚治虫が既に行っていたことは今更言及するほどでもない)。そしてさよなら絵梨ではこの点こそがものがたりの説得力とカタルシスを生む楔になっている。

何が言いたいか、フィクションの存在意義は「現実の超越」「思考の超越」にある。

つまるところ、例えばクライマックスで絵梨が出てきたところで「なぜ死んだのに生きてるのか?」「吸血鬼というのは映画内の設定じゃなかったのか?」という疑問はナンセンスなのだ。そこではつまらない現実的処理の代わりに物語本質を描くためのパラダイムシフトが行われたというそれだけなのだ。

そこにカタルシスを感じるか感じないかで、藤本タツキの好みは大きく変わっていくだろう


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