怖くて震えが止まらなかった、ヴッパタール舞踊団『カーネーション』

とても恐ろしい舞台を観た。今、与野本町駅から電車に乗っているのだが、まだ震えが止まらない。間違いなく今まで観たすべての舞台の中で1番怖かった。彩の国さいたま芸術劇場で上演された、ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団の『カーネーション』。28年ぶりの日本での再演で、ヴッパタール舞踊団のレパートリーの中でも名作中の名作と誉れ高い。
でも私は途中から動悸が激しくなり、苦しくて苦くて何度か席を立とうと本気で思った。一面にピンクのカーネーションが広がる舞台を、裸の胸を隠すようにアコーディオンを抱えた美しい女性が微笑みを浮かべて歩いているチラシのビジュアルイメージからはまったく想像できない、人種差別、性差別、支配と搾取の構造、軽視される芸術と芸術家の無力、実際の暴力が、もはや簡単には解決しない複雑な背景と共に、こんなにも赤裸々に描かれていく作品だとは、無知な私は覚悟していなかった。

もう少し詳しく書くなら、暴かれるのは、“◯◯のために”という名目のもとに行われる様々な強制だ。◯◯には、しつけ、芸術、観客、お金、ショーの進行、国家の安全、世界平和などの言葉が入るだろう。つまり、愛や善の名の下に行われる暴力だ。それらが、最初こそ愛らしくユーモアもあるダンスの衣をまとって柔らかに現れるが、自らその衣を1枚また1枚と剥ぎ取っていき、何かのメタファーではなく、世界をありありと写す鏡へと豹変するのだ。その残酷、禍々しさ、痛みが、吐き気を催すほど生々しく、けれどダンスと言えるぎりぎり最後の1枚だけは──イメージビジュアルの女性の下着のように!──保って差し出される。

私がここで言うまでもないことだが、唸るほどよく出来ている。
ヴッパタール舞踊団は、ダンスと演劇を融合させたタンツテアターを特色としていて、ピナはダンサーひとりひとりにインタビューし、それを振付に反映させたことで知られる。『カーネーション』でも、ダンサーひとりひとりが異なるバックグラウンド、異なる声、異なる個性を持つ個別の人間であることがさりげなく、だが常に強調される。それによって彼らがたとえ加害者を演じても、そこに至る事情、そうならざるを得なかった経緯を観客は想像することになる。ヴッパタール舞踏団は一般的なダンスカンパニーと異なり、年齢も肌の色も体型もバラバラなことも、差別の描写をリアルにする。

さらに重要なのは、少なくないせりふのほとんどを、ダンサー達がこの作品のために覚えた日本語で観客に語りかけていること。最初、そのたどたどしさは親近感につながり、会場からは度々笑いが生まれた(最後までそれをのどかに受け取って笑っている人もいた。人間はたどたどしく喋る相手を無意識に下に置く。あるいはその人物に対して油断する)。
だがやがてそれは、感情を伴わない機械的な言葉に聞こえ、また、自分の立場や気持ちを言いたいのに制限されて存分に言えない不自由さとなり、それぞれのシーンの深刻さを増す大きなファクターとなった。
ひとりの男性ダンサーが、クラシックバレエのテクニックを次々と「私はあなたたちに見せることができます、ほら、見たいのでしょう! 私はできます! もっとやりますか!?」と怒鳴るように言う時、そこにはまず、テアタータンツに理解のない時代、通常のダンスの物差しで考えたらまともに踊らないヴッパタール舞踊団のダンサーたちに向けられた誤解や中傷へのアンサーであることは容易に想像がつく。でもそれだけではない。もっと残酷なもの──舞台の上から差し出されたものは無遠慮に食い散らかし、さらに要求していいと思っている観客への、パフォーマーの悲痛な本音だろうとも思う。

一気に叩きのめされたのは、3人のダンサーがひとりのMCにパスポートを見せるように言われるシーンだった。
このMCは正装に身を包んだ中年の男性で、度々、場違いなタイミングで出てきては「パスポート拝見」と(もちろん日本語で)言って笑いを取っていたのだけれど、彼と3人のダンサーの絡みのシーンで、その短い言葉の真意が一気に明らかになる。
それぞれのパスポートをチェックすると、MCはひとりの男性に女性を肩車するように言い(女性のスカートでその男性の顔は見えなくなる)、次に、戸惑いつつも彼らを見下ろす形になった女性に、残るひとりの男性に対して「フランス語で山羊の真似をするように言いなさい」と言う。
パスポートの色はみんな違っていた。つまり生まれた国による優劣によって3人を格付けし、その順位があからさまになる命令をしたのだ。1番下とみなされた男性は、MCの命令を経由した“黒人”の“女性”に、おそらく母語ではない“フランス語”で、山羊、蛙、そして犬の真似をするよう次々と命じられる。そこには何重もの差別が存在し(「お前は黒人より下だ、お前は女よりも劣る」、けれどもそれを命じる女性は、白人の男性によって操作されている)、そこから見えるのは、差別主義者vs被差別者という二項対立ではなく、差別にグラデーションであるという告発さだ。
そして延々と犬の真似をして四つんばいで走り回る男性には結局、パスポートは返されない。

このシーンを観た時、私の脳裏には、今この瞬間、国境を越えようとして検閲所でパスポートを執拗にチェックされ、それを返してもらうために犬の真似をさせられている移民がいるかもしれないこと、いや、間違いなくいたし、きっと今もいるということが脳内にはっきりと映し出されてしまった。「まさかそんな非人道的なことはありえませんよ」なんて楽観的なことを、誰が言える? 

客席から逃げ出したくなったシーンをもうひとつだけ。政界の重要人物のSPを演じていたスーツの男性たちが、前のシーンでバケツいっぱいのじゃがいもを笑顔でむいていた女性に、繰り返し自分の体をテーブルに打ちつけながら無表情で迫っていくところ。
ここで私はある真実を教えられた。それは、真に恐ろしい支配者は、庶民に直接、銃口や刃先は向けない。痛みをなんとも思わない人物を探してきて、あるいは育てて、彼らが自分を傷付け、その血を見せつけることで「俺が耐えているのだ、だからお前も同じ苦しみや痛みを味わえ」と迫らせるのだ。支配者と被支配者の間にもうひとつ段階をつくり、そこに、痛みが好きで、血を見るのが好きで、おびえる人の顔を見るのが大好きという人間を配置する。支配者は無傷のまま見えないところにいる。そういう人は今、支配層にいるでしょう? 恐怖で涙が出た。


この作品について使われるべきとされる言葉が他にあることはわかっている。SNSには「美しい」「優雅」「名作」「感動」といった言葉がずらずらと並んでいた。でも私はそんな形容詞を使うことはとてもできない。そう感じる人がいたとしても、そういう感想があたかも作品を理解したように流通することに大きな抵抗がある。そんなはずはないだろう、と思う。だからもう1度書く。ヴッパタール舞踊団の『カーネーション』は実に恐ろしい、観るのに相当の覚悟が要る作品ですよと。

ただ、やはりこれは観るべき舞台だ。ここまで舞台芸術が表現できること、その内容と表現への変換力については、多くの人に知ってほしいし、おののいてほしい。と同時に、35年前にこれをつくった人がいること、それが女性であること、体現した人たちが、喝采を送った人々がいることは、とてつもなく勇気付けられる。
そう、この作品がまず讃えられるべきなのは、美しさなどではない、ピナ・バウシュとダンサー達の勇気と知性だ。

最後に少しポジティブな話を付け足しておく。ラスト、ダンサーたちが踊りの道に進んだきっかけを順に語っていく。それはオープニングへの回答で、叱られていた子どもたち(と叱っていた親)を救ったのがダンスであるとわかり、温かな気持ちが少し湧いた。途中で帰らなくてよかったと、震えが止まらないまま拍手をして、思った。



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演劇ジャーナリスト。著書に『我らに光を』(さいたまゴールド・シアターインタビュー集。河出書房新社)、『演劇最強論』(藤原ちから氏と共著。飛鳥新社)、『「演劇の街」をつくった男 本多一夫と下北沢』(ぴあ)。ツイッターはk_tokunaga