ほろびて『苗をうえる』
ひとりの登場人物の不条理な身体的変化が前面に出てくるので隠れがちだけど、今回の大きなモチーフはヤングケアラー。描かれるのは2つのケースで、それぞれのそうなってしまった経緯と当事者達の内面や背景が詳らかになるうち、気が遠くなるような“こじれた現実”が見えてくる。
誰もそうしたくてそうなったわけではないのに、バッドタイミング、方向違いの優しさ、飲み込んだ言葉、小さなわがままなどが少しずつ溜まって、そこにいる人全員が苦しいパズルにぴったりはめこまれたように身動きが取れなくなる。もはや「誰が悪い」「あれが原因だった」と因果をたどっても意味がない、そして下手に動けば全員が血だらけになるような共存関係。
そうした苦しさは(近年のほろびての作品がそうであったように)もちろん作中に収まらず、ヤングケアラーが自分で生き抜いていくしかない、現実社会のシステムの機能不全を意識させる。さらに、ヤングケアラーに留まらない、大きなシステムからこぼれた人達の問題にもリーチする。具体的には、宇L(うえる)の祖母・まどかの認知症と、それに伴う宇Lの就学機会の喪失や、鞘子の母・間々がおそらく抱えているであろう何らかの発達障害の可能性など。
そうした込み入った環境のもと、誰からも与えられない希望を自分でこしらえ、苦しさに耐えるために苦しさの原因を分析する18歳の鞘子や11歳の宇Lは、時に親達よりも大人であることを要求され、実際、そうなってしまう。ふたりのネクタイは、家族や家に縛り付けられる象徴であると同時に、彼女達が社会的な存在であることの象徴だろう。あるいは、そうした立場を彼女や彼がどこかで誇りにしている(そうしなければ生きていけない)ことのしるしであるかもしれない。
今回は暴力描写少なめ。それでも、血管が冷たくなる感覚とチリチリした痛みが観ていて広がる瞬間がいくつかある。内に溜まる暗いものが外に出て人を傷付けることがないよう必死に抑えるけれどこぼれてしまう宇R、鞘子は、何とか人に優しく、せめて理性的に生きようと息を詰めて生きる多くの人と重なるし、さらに言えば本作のほろびて自身のようだ。
鞘子と宇L(宇R)が時折り見せる、身体をぐにゃりとさせるおかしな動きは、自分の中に黒い熱いものが湧き上がって来た時に、それが外に出る回路をふさぐために編み出した、筋肉や関節を柔らかくして暴力を分散させる方法なのだろうと思った。見えない凶器を携え、暴力と地続きの力を抱えているのは怖いことだが、土を耕す時、クワと腕力はあったほうが良い。だからこれはギリギリ希望の話。
作・演出の細川洋平は、どちらかと言えば劇作家として長けていると思うが、毎公演、俳優達の演技が素晴らしいことを考えると、演出力というか稽古場の創造性をつくるのにも長けているのかもしれないと思う。今回も俳優が全員(辻凪子、和田瑠子、阿部輝、藤代太一、三森麻美)良かった。
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