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ダンスがダンスになる前の壮絶と孤独  ──シアターコクーン「黒田育世 再演譚」『ラストパイ』──

昨日、とんでもないものを観た。始まって間もなく胸に強く迫るものがあり、涙を堪えるのが大変だった。上演時間は約30分。終演後、席を立って歩くと、体が震えているのがわかった。

今回の企画は、会場のシアターコクーンが改築のため長期休館に入るのを知り、この十数年、コクーンでのダンス公演が減っているのを寂しく感じていた黒田が「閉まってしまう前にダンス作品を上演してほしい」と連絡したことから実現したという。ダンス公演は演劇のようにステージ数を多く取れないので、よほどの話題性がないと約750席のコクーンを満席に出来ず、また、想像するに、すぐ隣にオーチャードホールがあり、ダンス公演はそこ、コクーンは演劇という棲み分けがBunkamuraの中でなされていた背景もあったのだろう。果たして黒田のリクエストは受け入れられ、2015年に創作した『波と暮らして』と、2005年、金森穣の委嘱で創作した『ラストパイ』のダブルビルのダンス公演が実現した。
今回、“開かれたダンス作品”を目指したとパンフレットにあったが、『波と』に元宝塚トップの柚希礼音、『ラストパイ』にジャニーズ事務所所属で少年忍者というユニットの織山尚大をキャスティングしたのは、コンテンポラリーダンスを知らない層にその魅力を伝えることに加え、これもまた勝手な想像だが、コクーン満席のダンス公演を目指した事情もあるのかもしれない。

そして問題の『ラストパイ』である。パンフレットに黒田が「ダンスになりたいと真剣に願って創った作品」と書いていて、まさにその言葉通りの内容だった。
原始的な音色のドラムの打ち込みが鳴り、暗い舞台の下手手前にスポットがあたると上半身裸の若い男性がいて、対角線上の上手奥、3階ぐらいの高さに組まれたイントレの上にギタリストの松本じろがいて歌と演奏を始める。若い男性は弾かれたように全身を動かす。音楽をバックにはしているが、もっと内側から来る何かに突き上げられて、関節と筋肉を激しく動かしているような動作で、とても踊りやダンスとは呼べないものだ。けれども、くまなく全身の肉を骨を揺らし、片時も関節を休ませず、血液を逆流させ続け、けれど指先まで神経を巡らせている動きであることはわかり、目が離せない。彼はそれをずっと、照明が消える最後の最後まで続ける。

やがて彼のそばに人がひとり近付くが、彼のその動きを近くで見た途端、目を覆い、苦しそうに卒倒する。気絶したのか死んだのか。硬直したその人を仲間らしいふたりが引きずって自分達のエリアに引き戻す。けれど程なく、その人はまた激しく動く男に近付く。そして見た途端、やはり卒倒してしまう。つまり若い男性がしているその動きは、毒なのだ。あるいは、禁忌なのだ。再び倒れた人を仲間が引き戻すが、引き戻すふたりは動く男を見ない。そしてまた程なく、同じ人が動く男に近付く。見て倒れる。動く男を決して見ない仲間が引き戻す。この一連が何度も何度も繰り返される──。

ここでわかるのは、この作品が「ダンスは決して人類の本能から自然に生まれたものではない。本来、人が踊るのは非常に恐ろしいことなのだ」と言っている、ということだ。
と同時に、ダンスの歴史は、ダンスに選ばれてしまったごくわずかな人が肉体を削って生み出した1億の労苦と、それに対する1か2の報いによって続いているのだとも言っている。「何かに突き動かされて肉体を動かさずにいられない人」と「それに吸い寄せられてしまう人」「無視する/気付かない人」の関係は、長い長い人類史に続いてきたことの圧縮だ。ついでに言えばこの空間も宇宙の圧縮だ。
選ばれてしまった稀なる人が、名付け得ぬ衝動に突き動かされて理由もなく動く。何万年もひとりで。たまたまそれをキャッチする感性の持ち主が現れるが、長いことそれは快楽でも開放でも美でもない。だがやがて、気が遠くなるほどそれが繰り返されたあと、稀なる人から放たれるエネルギーが遠くにいる人に影響し、ダンスと呼ばれるものになり、多くの人々を踊らせる時代もやって来る。前述のシーンのあと、黒田が率いるカンパニー、BATIKのメンバーを中心としたエネルギッシュで美しい群舞が入るのだが、若い男性はそれと全く交わることなく、ダンスに見えない動きを動き続けるだけだ。そして美しい群舞はやがて熱狂を帯び、戦争を思わせる殺戮のシーンとなり、踊っていた人達は次々と倒れていく。スポーツの熱狂がナショナリズムを進行させる危険性を私達は知っているが、黒田は、ダンスもまたその入口になり得る恐ろしいものだと、本気で知っていて、それをこの作品に込めている。
そんな果てしない時間の間も、稀なる人はただ延々と突き動かされ、ダンスと呼べない動きを止めない。止められない、という言い方が正しいのだろう。誰が来ても離れても、時代や場所が変わっても、何かのためでも誰のためでもなく、動かされ、動き続ける。それが黒田の言うダンスなのだ。そしてこれは、とてつもなく壮大で深遠な孤独だと思う。私の胸を詰まらせたのは、激しさ以外の何ものでもない動きの波動から、その寂しさの一端を受け取ったからだ。

この稀なる人(ソリスト)を踊ったのがジャニーズの人だという驚き。舞台関係者の間で「踊りの上手い若手がいる」という噂はあったそうだが、黒田がYouTubeを観てスカウトしたと言う。カーテンコールでは男性ダンサーに両脇を抱えて出てくるほどふらふらで、だから、観たあと「凄かった」と言うと、彼の頑張りを讃えているように思われてしまうのだけれど、頑張りというレベルでは全くなくて、最後の最後まで、踊り始めの強度と純度を失わないまま動き続けていて、もちろんダンサー全員との協働の賜物ではあるけれど、ここに書いたビジョンを私の中に立ち上げてくれたのは、この人が踊ったからだと思う。

時に、やり過ぎる、という批判を受けるらしい黒田作品だが、この作品を引き受けるダンサー達がいて、それを観られて本当に良かった。実現してくれた皆さん、ありがとうございます。



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