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意味を必要とするということ。
おひさしぶりです。
ふと思い出してなにかを投稿しようと思いました。
そして下書きをチラ見したら書き上げた何かを見つけたので、そのままぽんと投稿してみようと思います。
書いたのはどうやら昨年の9月初旬。8ヶ月前の私は今の私とは少し違うかもしれません。
でも大部分は変わらないですし、でも違うので面白いなと思い読みました。
それではどうぞ。
いま私がこうしてなにか私について書いて、公表をしてみようかと思うことは、なんの意味があるのだろうか。
何か書いてみたいと思った私が最初に思ったのは、そんなことだった。
自己紹介がてら申し述べると、私は精神疾患のある、あともう少しで30歳になる人間だ。自己期待値が棒高跳びくらい高いのに、自己評価は呆れるほど低く、承認欲求は底無しだなんて自分でも呆れるような人間だ。そして何でもかんでも"事象"に対する意味を求めがちである。
私が何かを発信してみようかと思ったのは、書くことが好きなのがひとつ理由である。
いまは遠ざかっているけれど、昔は二次創作で小説など書いていた。たくさんの人に好まれるような文章ではなかったけれど(そして誉めてくれる人もいたけれど)、それは私の書くのが好きというのと、もちろん私のそのコンテンツへの気持ちとは関係ない。
話は逸れたけれど、私は言葉が好きで、とくにきれいな表現に触れると、私もなにかを書きたいと思う。今もとてもきれいな文章を読んだ。きれいな言葉と表現は、私もなにかを生み出したいと思わせてくれる、そしてその感覚も好きなのだ。今日はそんな感覚を思い出して、久方ぶりになにかを書いてみようかな、と一念発起したのである。
そして冒頭へと戻る。
果たしてこの行為になんの意味があるのだろうか。
己の手元に留めず、このような形で私の書き連ねることを、公表する、その意味はなんなのだろう。
いろいろ考えを巡らせ、大きくはしょってしまうけれど、そもそもブログやSNSとは、のようなところを経て、承認欲求だの共感だのという単語が浮かんだ。確かにそうなんだろうと思う。きっとそれは私だけではない、少なくない人がそういうものを満たしたがっているのではないかと思う。
そしてそう思ったときにふと行き着いたのは、あれ、意味は必要なのかな、ということだ。私がやりたい、それ以上のなにかが、果たして必要なのだろうか。
例えばわたしの書き連ねを誰かが面白がってくれたら万々歳なのかもしれないし、誰も見てくれなくても私は書くのかもしれないし、すぐに飽きてしまうかもしれない。結果はあとから見えてくるし、何者にもなれなかった私の言葉になったとしても、それが私を構成するものならば、それを意味のないものだと思ってやりたくない。私の中で意味を持つのだと思う。ほらそれでいいじゃない。
そしてああ、そうか。私を構築する正体のわからないものたちを、言葉として見つけてやる作業なのかもしれない。などと納得をしてみる。
結局人に公表することへの答えが見つかっていないけれど、とりあえずそれは上の通り、私がやりたいのだという言葉にかえてさせていただこうと思う。
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