俺の人生の振返り 1-3




「あめんぼ赤いな あいうえお うきもにこえびも泳いでいる」


ジャージに身を包み、発声練習、滑舌は大事、舞台のお客さんに声が届かないからね。


・・・・うん、最強の格闘技を習うはずが、どうして演劇の稽古しているかって?


そうそう、その経緯を語らなければ、訳が分からないね。

うん。

19才で、上京し、骨法道場に入門したかったのだが、

腕立て、腹筋、背筋 100回こなすこと

が条件だった。


1年運動していなかったので、まずはこれをクリアにしなければいけない。

毎日毎日、筋トレした。1年の秋に、後楽園ホールで、新生骨法の祭典というイベントが有り
入門前の見学のノリで観に行った・・・・が・・・・あまりの変貌ぶりに驚いた。

この当時、グレイシー柔術が日本の格闘家を席巻し、何でも有りのルールで
無敗を誇っていた時期である、それに日本武道も対抗しなければいけない!って
事で、大幅に技の体系も変えたらしい、書籍で見たものとは全く別物の仕様になっていた。


「・・・・・違う、俺が習いたかったのはこれじゃない・・・・」

ここで、目的が喪失してしまった、これから3年、大学のサークルにも入らず
なにをしたらいいのか、ただ学校と寮(当時学生寮に住んでいた)の往復なのか?


・・軽い喪失感を味わってしまった、女性も口説けず、失恋も経験。

このままじゃいけないと思っていた2年の秋の文化祭に見た舞台が自分の人生を変えた。

それまで演劇なんて、


クサイ芝居


音が見える、色が聞こえる・・・何それ?訳が分からないよ


という変な理屈こねくり回して、舞台の上で叫んでいるという偏見を抱いていたのだが
そこは違った。


はっきり言って「ドリフのコントじゃん」だった。


「あ、これ面白い!これなら俺にも出来そう!!」


本当は落語研究会に入ろうとしたが、途中入会はダメだって断られ、
秋に見た舞台を上演していた、「劇!サー」(仮名)に入会することにした。


ここでの1年間は本当に楽しかった、いじめられっ子といじめっ子との
共同創造のクセがまだ抜けきってなかったのだが


「俺はまだ出来ていないから、何を言われても耐えよう、出来るようになれば
発言権が出てくるはずだ」

のノリ、それより一番困ったが、舞台表現についてだった。


今まで体育会系だったので、「お芸術」に対しどういうアプローチをすれば
いいのか分からなかった。だったら武道・武術だったらその答えがあるのではないかと
という思考に行き着き、学校近くの本屋で、その過程で、武道、武術雑誌を読み漁る日々を過ごす。


この過程で、ゆる体操の創始者の高岡英夫師の記事を読んだのが、
ゆる体操と身体意識との出会いのきっかけなのだが、当時はまだピンと来てなかった。


「ディレクトシステム?・・・ちょっと良く分からないな・・・」


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演劇サークルでの1年間は、自分の中で本当に良い時代だったと思う。

確かにおちょくられ、いじめられっ子としての付き合い方がまだ抜け切れてなかったが
表現する楽しさとファンからの手紙も貰って、

「自分だってやれば出来るんだ!」

と希望を持ち始めた・・・そして、幼いころに思った

「ヒーローになりたい!」


「声優になりたい!」


に変わってきつつあった。このまま東京に居たい・・と思った・・・・・。


「Uターン就職するのが条件」

で、進学したものだし、どうしようか・・・と悩んでいた。

俺の舞台を見に、はるばる家族も上京、帰りに親父が


「あいつは、案外あの道が有っているのかもしれねえな」


という事も言っていたらしい、だから、上手くいけば
そのまま残れたかもしれないのだが・・・・・。


そんな時有る事件が起きた。

自分の大学には学生会という自治会が有り、そこの委員会になぜか選ばれた。

そこで1年生を4年生が歓迎するという会が毎年あり、そのお金を
預かることになる。しかし、そのお金を入れたバックを置き引きされてしまった・・・。


かなりの額である、自分の貯金から返済に充て、足りない分は
お世話になっていたゼミの教授に借金し、それを返済することに・・・・・

・・・となるとバイトだと厳しい・・・・・地元に戻って就職せざるを得なかった。

それが無かったら、東京に居られたのかもしれない。

その時の自分の実感は

「あ、またやっちゃった。自分はいざという時にヘマをするんだ、本当に
俺は劣っているなあ」

という事だった。


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