220306-2
これは夢から覚める、あるいは夢を見るということがどういうことかわからなくなってしまっていることを示すのではないか。現実に戻るということも自明ではなくなってしまっている。
これは、夢から覚めたことに「私」が気づいているこの現実は入れ子の外側の夢に含まれているのではないかという懐疑とは異なる。
夢から覚めるということは実は現実から覚めて(夢に戻っている)のではないかと問うことはいかなることだろうか。「実は」ということはいかなる視点から言えるのだろうか。「実は」はどこから支えられているのだろうか。
ふと思いついたので追記。この対立を実在と仮象の対立と考えてみよう。実在とされていたものが実は仮象で、仮象と思われていたものが実は実在であったというように(プラトン主義批判のようだ)。ところがこの場合でも「実は」ということがいかにして可能なのかということが問題である。なぜなのだろう、難しい。
またひとつ追記。「荘周と蝶とは、きっと区別があるだろう」というのは、夢と現実の区別、実在と仮象の区別があるということを示すのではないだろうか。その区別がないとそもそも、これは夢か現実かと問うこと自体できなくなってしまう。
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