230303

 最近は時間を見つけてはスリーノートヴォイシングにテンションノートを加える練習をしている。曲はAll the Things You Are。好きな曲だ。何百回と聴いたと思う。やはり自分の好きな曲を弾くと俄然やる気が出る。
 まだ滑らかに弾くことはできない。ところどころ躓きながら響きを探索している途上だ。音の発掘をしている気分になる。地道な調整とも言えるかもしれない。
 最近何か欠乏している気がしていて、食べ物のなかでそれを探していた。甘いものかと思い、黒糖まんじゅうを食べていたがどうやら違うようだ。何かがしっくりこない。今日、みかんをたべると、この酸味を求めていたのだと気づいた。果物を欲していたらしい。とくに染み入る酸味のあるものを。目が見開いて頭が冴えた感じがした。このごろなんとなく不調なのは果物の不足のせいだったのだろうか。
 胡蝶の夢について。まずは『荘子』からの引用。

むかし、荘周は自分が蝶になった夢を見た。楽しく飛びまわる蝶になりきって、のびのびと快適であったからであろう。自分が荘周であることを自覚しなかった。ところが、ふと目をさめてみると、まぎれもなく荘周である。いったい荘周が蝶となった夢を見たのだろうか、それとも蝶が荘周になった夢を見ているのだろうか。荘周と蝶とは、きっと区別があるだろう。こうした移行を物化(すなわち万物の変化)と名づけるのだろう。

金谷治訳・注『荘子 第一冊』、1971年、岩波文庫、89頁

 考えられる道をまずは洗い出したい。まずは「「
私」は現実には荘周である」という道から。
 そこから考えられるのは、「私」は現実には荘周であり、夢の中では蝶となり、現実の荘周へと戻る(夢から覚める)という場合。
 次に「私」は現実には荘周であり、夢の中では蝶となった後に、「現実の荘周へ戻る」という夢をみる場合。この場合、「ふと目をさめてみる」というのは夢であり、荘周である「私」は夢から覚めていない。「自分が荘周であることを自覚しなかった」という反省も夢である。ところでこの後に「私」が目覚めて現実に戻ったとすると、「私」は何を考えるだろうか。そもそも、どのようにしてそれが現実だとわかるのだろうか。
 一度、「私」は現実には蝶であるという場合について考えよう。現実には蝶である「私」は、夢から覚めると荘周であるという夢をみる。その夢のなかでは「私」は現実には荘周であることになっている。現実には荘周であることになっているのは、夢の始まりからそうなのではなく夢の中で夢から覚めるという出来事を経た上でそうなっている。ところで、「私」は現実には蝶なのだから、「楽しく飛びまわる」というのは現実なのだろうか。もし、それが現実だとすると、現実からみたときの現実と夢が、夢からみたときではひっくりかえっていることになる。「私」は蝶であり楽しく飛びまわるということが(夢の中では)夢になり、「私」は荘周であり、蝶になる夢から覚めたという夢が(夢の中では)現実になっている。
 こんがらがってきて眠いので今日はここで。


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