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茶道家として生きる

ちょうど今から2年前、世界が新型コロナウィルスという未知の恐怖に包まれ始めたころ、本業の証券会社では未曽有の大暴落により多忙を極めていました。そんなさ中、宮城県仙台市のど真ん中にあるビルの4階に茶室を造り、茶道を仕事として生きていく決意をしました。
ただでさえ全国的にほぼ例のない事業形態、さらに明日の世の中さえどうなっていくのか見えないそのタイミングでの判断は正直不安でしかありませんでした。
そしていよいよ初めてとなる緊急事態宣言が日本中に出され大混乱を極めたころ、SNS上にその決意を書き、逃げ道が断たれました。
そしてその夏、僕にとって人生の転機ともいえる大きな経験をしました。

クラウドファンディングです。

茶室建設にかかる予算は約1,500万円。家族の生活を考えると貯蓄から割ける金額は約500万円。もちろん借金はするつもりでしたが、ある友人から「そういう事業はクラウドファンディングに向いていると思うよ。」と勧められたのがきっかけで、考え始めました。
サイトに掲載する文章を作成し、その他の準備も整い、あとは申請ボタンを押すだけ。

ところが僕はその申請ボタンを一か月以上押すことができませんでした。

自分の好きなことを事業にする、そんな個人的なものに人様の大事なお金を出していただくなんて許されるんだろうか、もしかしたら、金の亡者みたいに思われるんじゃないだろうか、これまで仲良かった人との仲まで壊れちゃうんじゃないか、これほどの恐怖は初めてでした。

でもやってみたい気持ちもあり、周りの人に公言し始め、これまた逃げ道を断つことから始めました。

ある意味で事業そのものの決断以上に勇気のいる決断だったように思います。

結果は、全国約400名もの方から600万円近いご支援をいただくことができ、クラウドファンディングとしては大成功といえる結果だったのかと思います。

しかし、実施期間の約2ヶ月間、たくさんの応援をいただく一方で、これまで仲良かった人から何の連絡もなかったり、頻繁に会う人との会話にクラウドファンディングの話題が全く出なかったり。声を上げて応援してくれる人がいる一方で、きっとその10倍近い人はよく思っていないんだろう、そんなことも見え、どちらかというと苦しくて長い2ヶ月間でした。

振り返ってみると、クラウドファンディングは篩(ふるい)であり、生前葬、つまり、信用の数値化マシーンでした。

自分の素直な想いを発信するというのはとても勇気のいることで、だから多くの人はそれを避け、なんとなく周りに合わせて生きていく、それがいわゆる同調圧力を生むわけですが、勇気をもって真っすぐに発信し続ければ、確かに反発や非難を生むことも事実だけど、でも、少ない人数かもしれないけど、必ず応援してくれる人も声を上げてくれる。一度きりの人生、なんとなく我慢し続ける人生よりも、数はわずかでも、同じ方向を向いてくれる人たちとやりたいことをして生きていきたい、そのための篩分けだったように思います。

また、それまでの人生で自分はどれだけの人に信頼されうる人間になることができたか、それを残酷なまでに数値化するシステムでもあったように思います。

もし今、高校や大学の先生をしていたら、間違いなく夏休みの宿題は、

「クラウドファンディングをする。」

にするでしょう。

今の時代、誰もが世界中に「やりたい」を発信することができる。
その伝え方、そして、その結果の背景にある、人にとって最も大切な「信用」というもの、を学べる最高のツールだと確信します。

話がそれましたが、クラウドファンディングで約300万円(システム利用料や返礼品経費を差し引くと残るのは約半分)を調達することができ、残りを金融機関から借りることで無事、昨年春、茶室は完成しオープンすることができました。

そしてオープンから3か月、15年間勤めた会社も退職し、その茶室で、茶道教室をしたり、カフェをしたり、イベントをしたり、そしてたまにお金の勉強会を開催したりしています。茶道を始めて22年、毎日ワクワクしています。

なんとなく通った本郷


僕が本郷学園にいたのは1994年~2000年、中学、高校の6年間。成績はそこそこ、部活に打ち込むこともなく、毎日廊下でカラーボール使ってサッカーをしては先生に怒られる毎日。とくに目標もなくなんとなくその日その日を楽しむ、そんな6年間でした。
そしてその6年間、毎日満員電車で通うのですが、偶然友達と行った品川駅で大きな出来事がありました。

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ものすごい数の人が、同じ方向に、そしてすごい速さで歩いていく。行きたい方向も違ければ、急いでもいない僕はその流れにはじかれて、にらまれて、どうしてただ歩きたい方向に歩きたいスピードで歩くことが許されないんだろう、そう思ったのを今でも覚えています。

そんなことから次第に東京が苦手になっていき、高校2年生、大学の志望校を考えたとき、まだやりたいことも見つからなかった僕は、とりあえず東京を出ることを決めました。

第一志望は東北大学工学部。仙台には行ったこともなく、それはただ得意な数学の配点が高いから、それだけの理由でした。

でも、今考えるとその選択が僕の人生を大きく変えたことは間違いありません。

運命の出会い

無事東北大学に行くことができ、未知の土地で生まれて初めての一人暮らしが始まりました。そしてキャンパスライフといえばサークル活動。相変わらずこれといってやりたいことがみつからなかった僕に、ある日、友達から、「茶道部に見学行くから一緒にいこうよ。」と。正直まるで興味がわきませんでしたが、とりあえず一緒に見学に行ったことから全ては始まりました。
その茶道サークルは先生がいなくて、先輩が後輩に教える、というスタイルのため、優しく教えてくれる先輩もいれば、厳しい先輩もいて、次第に、お点前もさることながら、サークル内の人間関係が楽しくなっていきました。すっかり同期や先輩と仲良くなった僕は、頻繁に部室に練習に行くようになり、いつしかその空間に行くことが毎日の楽しみになっていきました。
気が付いたら毎日授業をさぼり、半日以上を部室で過ごす生活になっていました。一日12時間を約3年、これほどに茶道をした人がどれだけいるでしょう(笑)

大学卒業を迎えてもなお人生の目標も定まらず、ただ学生期間を延長したいがために大学院進学を決め、引き続き茶道サークルにのめり込む毎日を送りました。
そんな延長期間も終わりに近づき、いよいよ就職活動。
やっぱりやりたいことがみつからなかった僕は、世の中にはどんな業界、どんな仕事があるのかとにかくたくさん見てみることを決め、3か月足らずで200社以上、日本全国の会社説明会に行きました。それは大学入学以来初めて真剣になった時間でした。そこで出会ったのが、100%歩合、成果報酬で働ける、という某大手証券会社の特殊な働き方の説明会。それまでの人生、常になんとなくで生きてきた僕は、これなら頑張らなければいけない状況に追い込めて、本気になれるかもしれない、そう思い、まったく興味も知識もない証券会社に入ることを決めました。
これもまた茶道と同じくらい大きな出会いでした。
無事、就職先が決まった僕は、もう卒業する意味がない、と翌日には大学院を中退し、学生生活最後の残り時間を全力で茶道をして過ごしました。

理想と現実

本気の自分に会える、と胸を躍らせて会社に入ると、そこはとにかく数字がものを言う世界でした。性別も年次も関係なく、大きな数字を上げた者が褒められ、そうでない者は罵倒される。そんな中で、知識ゼロ、お客様ゼロの状態からのスタート。
毎日1000件もの知らない人に電話をし、また、お金持ちそうな地域の家を毎日100件、インターホンを鳴らして歩きます。
そのほぼ全てが門前払い。名乗っただけで話さえ聞いてはもらえず、それどころか怒られることも珍しくありません。最初の半年は結果という結果はほぼゼロでしたが、それでも、生まれて初めて必死になっていた自分がすごく嬉しくて、楽しく怒られてました。
そんな調子で仕事をしていると、度々、上司、つまりは会社とぶつかることが出てきました。

それは、お客様の利益を最優先したい僕と、会社からの評価(会社の利益)を最優先させたい上司(会社)の衝突でした。

現状の金融界の仕組みでは、お客様の利益がそのまま会社の利益にはならない構造のため、目先の利益を追及する会社(上司)とはとにかくぶつかるのです。つまり、これは上司(人)がわるいのではなく、仕組みが原因。上司が変わったところで何一つ状況は変わることはありません。
いつしか社内の人間とはほぼ会話をすることもなくなり、ただお客様に喜んでいただくことに全てを割きました。

予期せぬスタート

そんな孤独な職場環境で働く僕を精神面で支えてくれたのが茶道でした。

証券会社入社後、半年ほどして仙台の茶道教室に入り、お茶を続けることに。
そして今から7年前のある日、知人を介して、「茶道を始めてみたい」という僕と同世代の男性と知り合うことになりました。
それまで、教室をすることなんて1ミリも考えていなかったため、まずはサークルのようなかたちで月に1、2回お茶を点てて、和菓子とお茶をいただきつつ、お茶にまつわるお話をするようになりました。一切外には知られないようFacebookで非公開グループを作り、ひっそりと続けました。すると、2、3年後には口コミだけでグループは同世代を中心に60人近くまで増え、次第に、お点前のお稽古もしてみたい、という人も現れ始め、少しずつ、いわゆる「茶道教室」らしくなっていきました。
世間では、
「いまどきお茶なんて始める若い人はいない。」
そう言われていましたが、
もしかしたら、関心を持った若い人が入っていきやすい「入り口」が用意されていないだけなのではないか。
もしそうであれば、僕のような歳で、しかもまだまだ未熟者だからこそ入りやすい入り口になれるんじゃないか。

そう思うようになりました。

そしてそのうち、これだけ興味を持ってくれる人がいるなら、もっといい環境でお稽古させてあげたい、そんな想いが強くなり、冒頭の話に繋がることになります。

ほんの少しの勇気と圧倒的な行動力

最後に、本郷といまの僕をつなげる一つの出来事についてお話ししたいと思います。

いまから12年前、知人から譲り受けたチケットで行ったEXILEのライブ。
当時のEXILEのメインボーカルは本郷で僕の一つ先輩の佐藤篤さん。直接の関わりはありませんでしたが、友達を通じて、在学中もその後のこともなんとなくは知ってました。
同じときに同じ場所にいた人が、5万人もの人の前で歌い、感動させている風景に心を打たれ、と同時に、10年でこんなにも人は差がつくものなのか、とがく然としたのを今でもはっきりと覚えています。もちろんもともとの能力の差もありますが、きっと誰よりも自分の夢を信じ、努力し続け、勇気ある判断をし続けたんだろうなぁ、そう思い、その後の僕の一つの指針になったように思います。ATSUSHIさんがこれを読むことはないかもしれませんが、この場を借りて心から感謝申し上げます。

誰よりも「なんとなく」生きてきた僕でさえ、勇気を出して自分を出すことで今、好きなことをして生きています。
ほんの少しの勇気と、好きなことにはとことんハマる行動力さえあれば誰でも好きを仕事にできる、そんなことを感じていただけたら幸いです。それは昔よりずっとずっと実現しやすい時代になったと僕は思います。

(この文章は、私立本郷学園同窓会誌に掲載予定の文章をそのまま載せております。)


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