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非日常の日常が帰ってきた

スポーツを生業としていると、それが非日常であることに対しての感覚が麻痺してくる。自分にとってスポーツは日常であっても、いざ失われてみると「祝祭性」を持った特別な空間であることを思い出させられる。同時に「Essential」なものでは到底なく、あくまでただの「余暇の過ごし方」であることを痛感する。そんな1年間だった。

九州で合宿をしていた時、中国で新しい風邪が流行っているらしいと冗談交じりに笑っていた。そこからあれよあれよと状況は悪化する。

自分のキャリアの節目として過ごすはずだった、チームでの最終年はシーズン中止で終わった。その直後には次に行くはずだった国は国境を閉じた。グローバル化が叫ばれる昨今の世の中。人と人との繋がりをテクノロジーが埋めることはなく、勝手に小さいと感じていた世界は途端に大きな物理的な距離を持ち始めた。

正直なところ、5月ごろにこの仕事をやめるかどうかが頭をよぎった。まだまだ20代半ばのぺーぺーではあるが、仕事には不思議と「縁」というものがある。やめずにチャンスを待つことが「縁」を掴むことなのか、そんなことはそもそも生存者バイアスなのか、やることがない肩身の狭い実家で思考はどうしても塞ぎ込んだ。

まだたまに自問自答している。果たして今の自分はチャンスのために努力をしているのか、過去の「縁」と思い出に縋り付いているのか分からなくなる瞬間が多々ある。冷静に損切りを繰り返せる性格ではない。

そうこう考えているうちに迎えた開幕戦。試合の日の朝は匂いが少し違う。そんなことは全くなかった。丸1年空いたことで、試合が始まるまで現実味がただただなかった。

観客のいるスタジアム。その空間が持つ「祝祭性」。始まりを知らせる笛の音とともにそれを思い出し、同時にあることに気づいた。

おそらく自分は過去の「縁」と思い出に縋り付いている。その国、その土地、そのチームで出会う人との思い出、繋がり、そういったものを忘れたくなくて仕事を続けている。

スポーツが、ラグビーが憎い。要らない思い出もたくさんある。ただ、憎めば憎むほどに、どうしようもなく愛おしく感じてしまう瞬間がある。

「あのね、コーリャ、それはそうと君はこの人生でとても不幸な人になるでしょうよ」突然どういうわけか、アリョーシャが言った。
「知ってます、知ってますとも。ほんとにあなたは何もかも前もってわかるんですね!」すぐにコーリャが相槌を打った。
「しかし、全体としての人生は、やはり祝福なさいよ」

『カラマーゾフの兄弟』のこの言葉の意味が今なら少しわかる。薄目で見れば、人生はいつだって幸せなのかもしれない。少なくともスポーツという限定された空間には、限定された幸せが存在している。




お察しの通り、今週は本を読めませんでした。まあトップリーグが無事開幕してよかったです、ってことで。エモい風に書く挑戦でした。

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