見出し画像

嘘は泥棒の始まり、か?

 日本文化において広く共有されている倫理観を、少年少女の心の中で涵養するための言説として、「嘘は泥棒の始まり」というフレーズがよく使われていた(今はどうか知らない)。
 私自身、まだ小学生になる前から繰り返しこのフレーズに接していた。
しかし、そのようなフレーズに接するうち、次第に違和感を覚えるようになっていったのだ。その違和感には、大きく二つの方向性があった。


 一つ目の違和感は、言説の必然性である。
 「泥棒」とは「盗み」をはたらくこと、あるいは「盗み」をはたらく人を指す。当時の私にとって泥棒とは、典型的には頬かむりをして大きな風呂敷に他人の財物を包んでこっそり持ち出す姿、すなわち空き巣のイメージが強かった。また、デパートのアナウンスで「置き引きにご注意ください」というフレーズがあり、他人が短時間放置した持ち物を勝手に持ち去るイメージも、私の中の泥棒像を構成していた。
 空き巣であれ置き引きであれ、所有者に嘘をつかなくとも盗みは成立する。いや、むしろ、盗みの成功率を下げないためには、実行犯としては嘘をつくどころか所有者とは、いかなる言葉も交わすことを極力避けるはずである。
 つまり、私の中の泥棒という概念には、直接的には「嘘」が結びついていなかったため、嘘をつくと泥棒になる、あるいは泥棒になる前段階で必ず嘘をつくという、上記の言説に対する標準的解釈の因果律に、必然性を感じられなかったのである。
 一方で、嘘をついた人がことごとく泥棒になるという言説もまた、経験的に承服しがたい。
 つまり、嘘をつくことは泥棒になるための必要条件でも十分条件でもないということである。


 二つ目の違和感は、その因果律の向きである。
 「嘘」→「泥棒」という向きの因果律に違和感を持った後にいろいろと考察を巡らすうち、因果律が逆ではないかと思い至った。泥棒であれ、殺人であれ、刑事ドラマを見ていると、取調室に連れていかれて尋問を受けるとき、「お前がやったんだろう?」と尋ねられて、すぐに「はい、私がやりました」という展開になるのはまれであり、私じゃない、とか、覚えていない、とかの嘘をつくのが標準的な反応である。
 むしろ、「泥棒は嘘の始まり」なのである。
 そんな反発を心の中で唱えながらも、それを大人の前で表明しても得るものがないと思っていたので、当然口に出すことはなかったが。


 さて、このコラムは、嘘をつかなくても泥棒ができることについて、実証しようとする試みでもある。本コラムの100万人とも言われている愛読者の皆さんが、今回のコラムを読んでくださっている間に、私が嘘をつかないままに、とんでもないものを盗んだことにお気づきだろうか?


 それは、


 「あなたの心です!」 (by 銭形警部)

終わり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?