「自然に沿って生きる」川口由一

YouTubeに上がっている川口由一さん出演の番組を久々に観たら、とても感動しましたので、最後のナレーターと川口さんの対談を文字起こししてみました。
興味ある方は、動画の方も観てみてください。

「2004年 川口由一 自然に沿って生きる」より

質問:自然から学ばれたものとは?

川口由一:
そうですね、自然から学んだ、命の世界から学んだものは、やはり、もう絶対なる定め、絶対なる定め。

もう、どうしようもない定めがある、という。それにはもう沿うしかない。
そして沿うしかない、従うしかない。

それと同時に、自然界は100%生かせてくれている。生きるに必要なものは全部用意してくれている。
それにも気付かされています。

その恵みを如何に上手に受け取る事ができるかね。
その辺のところで、100%生かされていると同時に、100%自分で生きないと生きることができないんだ、と、そのことに気づいたんですよね。

100%生かされているんだけれども、生きるに必要なものは自然界に用意されているんだけれども、自分の命は自分で生きないと生きることができない。

もうこれは一つのことなんだなと。

例えば、他力、或いは自力だとか、その辺のところで、どうするかでしょ。

他力なんだ他力なんだ、もうこれは100%他力なんですよね。
自力なんだ自力なんだ、これはやっぱり100%自力なんですよね。
でもこれは両方とも真実であって、両方とも大事で、生かされている中で、我が命は100%生きないと生きることができない、そして如何に生きるかは、問われているわけですよね。

喜びのうちに生きるかどうか、苦しみのうちに生きるかどうかは、私にかかっているわけですけれども。
それを問われているわけですよね。

或いは永続を可能にしたような生き方をできるかどうかね。

或いはいつかは壁にぶち当たるような農の仕方しかできないかどうか。

その辺のところを問われているわけですけれども。
でも自然界は生き続けることの出来る舞台なわけですわね。
それに沿ったならば、生き続けられるわけでしょう。

自然農の栽培の仕方もその一つなわけですけれども。

絶妙さと同時に、我が命は私が生きないと、そして、喜びのうちに生きれるかどうか、幸せのうちに生きれるかどうかは、私にかかってるんだな、て。

そこまで自然界は用意してくれていないんだという。

命あるものとして、100年間、見事に生きれるかどうかは、自然の法に沿っているかどうか、そこのところで外れたら不安が付き纏いますよね。
いつかは壁にぶち当たりますので。
そして、今に、今に信を置けませんよね。
自然の理から外れたならば。納得いかないんですよね。

例えば、除草剤を多量に投入して栽培するときは、もうね、信が置けないんですよ。

除草の作業から解放されているんだけれども、命は納得しないんですよね。

そうしたように、命の理から外れたら信が置けない。

それで、沿ったならば、信を置ける。安心することができる。そして、静かな喜びが結果としてもたらされますので、実りが、喜びに繋がるわけですよね。

命あるものとして、基本のところで、命の道に沿ったならば、安心を得られる。喜びに繋がる基本のものを手にすることができる。
その上で喜びが如何に人としての深い喜びになるかどうかは、人の心の問題、精神の問題、或いは魂の問題だと思います。

その辺のところで、人の道を明らかにしたらならば、喜びが深いものになってくると思うんです。

自然の摂理に沿った栽培の仕方で食糧を手にする、その上で、如何に喜びを深いものにするかどうかは、私がどれだけ人の道を生きるかどうかにかかっているわけですよね。

命の道を生きるかどうかと、人の道を生きるかどうか。

質問:
そういった考え方を農業に携わらない私たちがどういう風に活かしていけばよいか?

川口由一:
そうですねぇ、実際にこの自然界に身を置いて、お米を育てる、麦を育てる中で、本当のことを気付かされるわけですけれども、私の定めに気付かされる、足を乗っけているこの地球生命圏に気付かされる、或いはこの自然の本体に気付かされるわけですけれども。

でも、そういう所から離れて生活している人達は、少し、なかなか気付く機会が少ないですよね。

基本のところでは、やはり私の生きるに必要な食べ物は、野に出て、この自然界に身を置いて、栽培して手にすることによって、私の人生の完結に繋がる色んな智慧や、能力や、悟りの要素をね、養われると思うんです。

それは基本のところではやはり野に立つことが、或いは生きるに必要な食べ物は自分で手にする事が基本だと思うんですよね。

ところが、そうで無い人の場合ですけれども、やはりこの私たちがどれだけ喜びのうちにこの生の期間を全うするかどうか、ここのところが1番大事だと思うんですよね。

生まれてきたわけでしょ、目的なく生まれてきてるんですよね。人類はある時、地球の上に誕生してきたわけでしょう。かつていなかった生物なわけでしょう。
ある時地球の上に誕生してきたわけでしょう。
何も目的なく誕生してきたわけでしょう。
或いは生まれてきたわけですよね。
存在そのものには目的がないな、とそんな風に思えるわけですけれども。

ところで、生まれてきたら生きなきゃならないわけですよね。
100年前後生きなきゃならないわけですわ。
まぁ大変ですよね。

ところが、それが、喜びの日々になったならば、なんともいえず有り難くなる、或いは感謝の気持ちが湧いてくる、或いは生きることの苦しみや悩みから解放されるわけでしょう。

それのところで、やはり、基本のことを悟らないと、気付かないと、それに繋がらないわけですよね。

ところで、自然農をしてない人、或いは田畑に立てない人は、どのようにしたらそれに気付けるかどうか、喜びの日々に出来るかどうか、平安の日々に出来るかどうか。

或いは持続可能なこの社会に出来るかどうか、環境問題を根本から解決できるかどうかにかかっているんだけれども、それはね、誰でも田んぼに立たなくても、自然農しなくても、それは悟ることが出来るはずなんですよね。

というのは、私のこの身体も命そのものですので。
この一枚の田んぼと同じような営みをしていますので。

或いは全てをあらしめるこの本体と、或いは地球生命圏と、相似た営みをしているんですよね。この身体は。

それを良く観たならば、この身体が生かされている所は、仮に都会の中でも、空気あり、太陽あり、水があり、ね。
欠かすことの出来ない恵みの中で、日々を送っているわけですよね。
その辺の理に気付いたならば、その定めが気付くことが出来ると思うんですよね。

そして、この、生の期間は、本当の本当に僅かなんだって。

僅かであるんだけれども、でも、私から観たら長い100年前後ですよね。

その定めを知った上で、人の道を明らかにした上で、喜びの日々に出来ると思うんです。

その基本である自然界の法則を、自然界の理を、私の命の定めを知ったならば、それがもう如何に大事なものであるか、尊いものであるか。

或いは目的なく生まれてきた、存在してきたこの私たちなんだけれども、この生の期間なんだけれども、それが如何に尊いこの生の期間なのか、この期間を大事にせざるを得なくなると思うんですよ。

その想いが起こったならば、必ず幸せに繋がる、喜びに繋がる日々に、自らの手でしていけるように、そのように必ずなる、そのような智慧が必ず働く、必ず幸せな日々にすることが出来る、そのように想ったならば、それをしたならば。本当にそのように思いますね。

質問:
それが生ききるという事でもあると。

川口由一:
そうですね、命の道に沿った、人の道に沿った、それが明らかになったらそれを生ききる、今を生ききる事によって納得が入るね、喜びの日々に、感謝の日々に、或いは感謝の今になる。
そんな風に繋がると思うんです。

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