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時を「惜しむ」

今日しかない、
今しかないと思って生きるとは どういう生き方だろう。

子どもの頃
学校が終わる時間に「また あしたー」「あしたねー」と帰った。
その言葉どおり 次の日も 変らぬ顔ぶれに会い 授業を受けて一緒にあそぶ。
繰り返しのような日々を送った。

初めて 
もうあしたは来ないと思いながら 一日を噛みしめて過ごしたのは 高校卒業の日だった。

中高六年間の持ち上がり学校だったこともあって ほとんどの同学年とは
顔なじみになる。
組替えがあっても たいていは同じ階にクラスルームを持っており 授業に
よっては 選択制になっていたり、理解度によって分けられていた。

そのため クラスメイト以外の多くの顔触れとも 交わる機会が増える。

恩師たちも大きく変わることは少なく、多くが入学時から卒業時まで在籍
されていた。

つまり 今日と同じように あしたが来ると信じてしまう要素に まるごと
包まれた学生時代だったのだろう。

だが 卒業の日は来た。


次の日から もう学校には行かない。
馴染んだ制服も 着ない。
ここに来る権利も 籍もない。
行ったとしても それは卒業生として迎えられるだけだ。

「お? どうした?」「元気だったの?」と 半分 お客さま扱いで尋ねられることになる。

分かっていても とても信じられない。
その日は朝から 何度も何度も 「あしたは 来ない」という言葉が アタマに
よぎっていた。

この階段を昇るのは これで最後。
この廊下を通るのは これで最後。
この扉を開けることは もう ない。

そう思うと ひとつひとつの動作が いつもとはまったく違っていた。
できるだけ丁寧に ゆっくりと動く。

クラスメイトが どう感じていたのかは 当時も またその後も 訊いてみたことがないので知らない。
ただ 自分のなかだけで 感じる「惜しむ」こころだった。

大学に入ったのちは そういうことを思うことは なくなっていった。
もちろん いろんな別れを経験したが 刻むような時間の過ごし方は 記憶に
残っていない。
会社でも 仕事を替わっても 恋人と別れても。

さよならを言うことに慣れてしまったのだろうか。

生きていれば 出会いがあり、ワンセットのように別れがある。
それが当たり前になって 慣れてしまって こころが埋もれていったのかも
しれない。

でも やっぱり。

あとから それを思うより、失くす一日前に 大切を刻んでおきたい。
刻んで生きる自分でありたい。

このグラスを滑り落ちる 水のしずくが好きだ。
この笑顔に癒される時間が好きだ。

この匂いに 安心を感じる。
この窓から 家並みを眺めるのが好きだ。
それから
このnoteに綴ることも。

愛している。
出会ったひとたちを愛している。

とても大切に思っている。
だから しあわせで いてほしい。

ばかに みえるかもしれないけど 今の気持ちだから 書いておく。
ほんとうに愛している。

やがて 8月。
無事に迎えられるのかどうかは 誰にもわからない。
あしたが来るのかは 誰にも 断言できない。

熱帯夜。
夜明けは 来る・・・はず。

いま この時間を なぜだか 惜しんでいる。
「惜しむ」こころを 思い出して ゆっくり ゆっくり 刻んでいる。 
 
  

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