哲学科にいるだけの哲学科生

 別に哲学が好きなわけでもないのに哲学科にいる。否、そう言い切ってしまうと少し語弊があるかもしれない。決して哲学に全く興味がないわけではないのだ。

 読者諸兄は私が某私大付属校から内部推薦で大学へ進学したことはおそらくご存じだと思う。私はもともと心理学系の学部学科への推薦を希望していたが、叶わず第2志望で哲学科に入学した。高校の倫理の授業で哲学に関心を抱いたこと自体は紛れもない事実である。しかし、実験や専門資格など、大学で実際に専攻しなければ学問による恩恵を得にくい心理学と違って、哲学、ひいては文献の読解が研究手法の中心に据えられている人文科学は、本人にやる気と時間の余裕さえあれば独学でも相当に深い知見を得ることができる。心理学を大学で専攻しながら並行して自分で哲学書を読むことを目標としていた私は、自分の成績不足が大きな原因とはいえ望まぬ形で哲学科へ足を踏み入れることになった。そもそも当初は哲学の中でも東洋思想に強い関心を抱いていたこともあり、西洋哲学専門の教員しか揃っていない弊学に入学することに対して意欲的には全くなれなかった。一応非常勤講師の担当する授業が開講されてはいるものの、専任教員が西洋哲学を専門にしている者ばかりでは卒論で東洋思想を取り扱うことは(仮に不可能ではなかったとしても)現実的ではない。推薦という都合上、第一志望で入学したという体裁で関連書類を記入しなければならず、そういう顔をして大学で過ごさなければならないことも苦痛だった。

 私はある悪癖を有している。同じ学科内での人間関係の良し悪しでその学問を好きかもしれないと錯覚してしまうのだ。哲学科で友人ができれば会話の中で哲学の話題が降ってくるのは当然で、そういう話題があるから話を合わせるし通じたら興味があるような気になる。だがその関係が失われればどうだ。それが互いに共有され楽しまれるコンテンツであったから必要に駆られて知識の習得を自然とやるだけであって、共有する場がなくなればそれは「興味がないわけではないが取り立てて好きでもない何か」と化すのである。

 それが露呈し、就活で一般企業を受けても己の凹凸の激しい発達特性ゆえにSPIや面接の結果お祈りされることがほぼ当確であり、内定を得られたとしても適合することはおそらく不可能であろう今「消去法で」研究者を目指すルートを走ろうとしているという救いようのない現実がある。このまま惰性で院進したところで、修論なんて到底書けるはずもないのに。そもそも卒論をきちんと完成させられるかどうかすら怪しいのだ。早く死んだほうがいい。好きなことでしか食っていきたくないのは当たり前であるが、音楽をはじめとした芸術の方面に進むことを己の凡庸さを自覚して諦めた私にとって、学問の求道さえ失われれば本当に何もなくなってしまう。周りを見渡してみれば、学士で就職することを公言しているのに自分よりよほどきちんと哲学が好きで、いいレポートを書き、いいレジュメを作り、いい発表をしている学生の存在は決して珍しくない。────それに比べて、私ときたら

 時代を少し遡ろう。小学生のころの私は、図鑑や百科事典を読むのが好きで、「物知り博士」としてのポジションを確立することでクラスの中での立ち位置を確保していた。このタイプは単なる情報コレクターになるか、それらの情報の統合・分析までする研究者タイプになるか、このどちらかに二分されることが多いのだが、私は前者だった。すなわち、羅列された情報を知識として蓄積することは好きだが、それらを踏まえて自分なりの考察をすることに関しては全くと言っていいほど興味がないのだ。だったらもうWikipediaでいいじゃんね。当然大学に入ってレポートが課された際には文字通り詰んだ。新規性のある論文など書けようはずもない。そもそも「引用元明記してたら文句ないよな?」などとほざいて2000字のレポートがあったら1200字引用で埋めるようなこの世の終わりみたいな学生が研究職を目指そうとすること自体傲慢の極みである(まあそのレポートを出しても不可にせずに合格点を与える教員もある意味問題だが)。

 ついでに言えば、私は高校でカントの名前さえ出てこないあまりにも杜撰な倫理の授業を受けて哲学科に進学した(スピノザ、ライプニッツ、ヒューム、バークリ、ベンサム、ミルなど、倫理が開講されている高校であれば教えて当たり前であろうビッグネームを私は高校の倫理では学ばなかったのである)ので、哲学科生なら常識ともいえる内容ですら致命的に知識が不足している。卒業した私大附属校は偏差値でいえば70強あるのだけれど、それよりも偏差値が10ほど下の高校から一般入試で入学した学生が当たり前に知っていることすら知らないのだ。それも主に高校の教育課程という外的要因によって。これは私が学部入学以来常に抱いてきた強烈なコンプレックスである。つまり何が起こるかといえば、Wikipediaを確認すればわかる程度の哲学の基礎知識ですら正確に把握していないもう殺してくれ

 哲学というのはコアなファンを獲得する魅力を有しつつも、実に邪悪な学問である。たとえ哲学に触れるのが浅はかな人間でも、人文科学に造詣が深くない人間の前であれば、たとえ正確に理解していないような概念であっても専門用語を会話の端々に散りばめておけば知識人ぶれてしまうからだ。かの「ソーカル事件」において、アラン・ソーカルがポストモダン派の思想家たちを「自然科学の専門用語を自らの思想の権威付けのために出鱈目に使用している」と批判したように。私は自分の専門のことを聞かれたり、「哲学の話してよ」と振られたときに毎回のようにこの愚かさを噛みしめ、自分を恥じながら理解できているかどうかすらわからない言葉を紡いで説明をすることになる。ああなんと愚かなことだろう。おそらく私よりも、他の学問を専攻しながら趣味かつ独学で哲学に触れている者たちの方がよほど私よりも教養が深く、概念を正確に理解しているように思われる。経済学部に経済学をやりに来ている人間など数えるほどしかいない、とはよく聞くが、経済学部や法学部ならともかく文学部しかも哲学科にこんな人間がいては、哲学科生の風上にも置けない。

 ああ、早く哲学から身を引きたい。これでも中退せずに大学に残っているのは、教育実習が来年に控えている都合上教職課程を履修しながらここで投げ出すのがもったいないという感情に引っ張られているだけだ。哲学に愛着があるからでは決してない。散々軽蔑してきた、四大卒資格を得るためだけに大学に通っている数多の学生たちと一体何が違うというのだろう。こんなことを言っているうちにも、いや提出は12月のはずだからまだ猶予がないわけでもないけれども、2万字の壁として卒論が刻一刻と迫ってくる。私より哲学が好きなのに合格できなかった誰かが、私が枠を譲ることで救われればよかったのにね

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