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後藤ひとりになれなかった私たちは

陰キャならロックをやれ

 およそ6年ぶりに、1クール12話のアニメを完走した。「ぼっち・ざ・ろっく!」である。母親がアマプラに加入しているので、共有しているそのアカウントを使ってプライムビデオで配信されている分を一気見したのだ。放送期間内に視聴すれば3か月だが、所詮は30分×12話だからぶっ続けで見ても6時間である。ましてサブスクで見るのであれば途中でCMが挟まれることもない。
 結果から言えば、私は「ぼざろ」という作品をそれなりに楽しむことができた。駆け出しバンドの成長がきちんとわかるストーリーかつ、各キャラクターの個性も立っていて、さらに曲のクオリティも相当に高いし、何より某課後ティータイムと違ってちゃんと練習している(私はバンドアニメのくせにお茶会するたび上手くなったりしているああいう作品をバンドを舐めているからという理由で蛇蝎のごとく嫌っている)。ぼっちの顔芸もやはりかなりの見どころだ。気になるとすれば、ギターを本格的に弾き始めて半年程度の喜多郁代の上達スピードが凄まじいということか(フィクションであるとはいえ、ぶっちゃけあの成長速度から考えると結束バンドで一番の天才はぼっちではなく郁代といっても過言ではない)。

結束バンドの中で好きなのは大方の予想通り山田リョウである

後藤ひとりという人物

 主人公のぼっちちゃんこと後藤ひとりは、実に見本のような陰キャである。コミュ障で根暗でネガティブで、喋ろうとすれば必ずといっていいほど「あっ」と口走ってしまう。相手と目を合わせるどころか顔を向けることもできないが、かといってコミュニケーションを完全に突っぱねられる度胸もろくに持ち合わせておらず、申し訳程度にボソボソと会話に応じたりする。ある種運命的にギターを始め才能を開花させたはいいものの、凄まじいまでのコミュ障が仇となりそれを手段としたアピールで友達を作ることもできない。その一方、病的な承認欲求の塊でもあり、脳内では普段とは似ても似つかない、音楽で大成功しスーパースターになる妄想をしばしば繰り広げ、ちやほやしてもらえそうだと思うや否や衝動的に行動しては黒歴史を量産する。そのうえ、褒められるとにやけすぎていつもとは違う顔面崩壊を起こすほどすぐ調子に乗る。総じて、まさに「陰キャあるある」を体現したかのようなキャラクターだ。

ギターが弾けない後藤ひとり

 ただ──ぼっちと同じような傾向のある現実世界のテンプレ的な「陰キャ」が本当に見たかったものは、果たしてこの12話を通して描かれたストーリーに存在したのだろうか。劇中のぼっちはそのような属性を内包しているとはいえ、結果的に学生によるバンド活動として一定の成功を収めている。雑に言えば、彼女は自身の短所を完全には克服できていないとはいえある程度「救済された」のだ。
 おそらく、私、あるいは私たちがこの作品に求めていたのは、「結束バンドにもguitarheroにもなれなかった後藤ひとり」だった。この世界の陰キャの相当数には、ぼっちのようなコミュ障具合や承認欲求こそあれど、ぼっちにとってのギターほど首ったけになれるほどのものはないのだ。というより、もはや陰キャでも夢中になれるようなアニメやゲームさえのめりこめない「無キャ」すら少なくない。だからこそ、最終的に(完璧ではないとはいえ)成功エンドで幕を閉じる(そもそもまだ原作は完結していないのでこの表現には語弊があるが)「ぼざろ」の展開は、捉えようによってはどこか現実味がない(ただし、陰キャでこそあれ、ぼっちには内心陽キャに毒づいたり、呪詛を垂れ流したりといったコンプレックスを拗らせた攻撃的な言動は皆無である。理由は単純で、ぼっち本人はそういった感情を音楽活動へのエネルギーに昇華できているからだ。さらに補足するなら、外見に関してはぼっちは美少女であることが公式から明言されているリアル陰キャの多くはぼっちよりもむしろ「わたモテ」の黒木智子/もこっちに近い)。フィクションと現実をごっちゃにするなという指摘はごもっともである。しかし、この世界にはぼっちと同じような動機で楽器を始めながらも、ぼっちのような結果に至れず挫折した陰キャの死体がそこら中に転がっているはずだ。私は実際完全にそのタイプで、承認欲求のために様々な楽器を中途半端に手に取り(最終的にドラムにほぼ落ち着いたのだが)、そのどれもで実力も結果も得られず、今ではほぼ完全に自分の人生から楽器を排除している。視聴者の全員とは言わずとも、そうした個人的な経験にいくらか寄り添ってくれる、真に「代弁者」たる作品があってほしいと願っている者がいることは想像に難くない。創作の世界にくらい「自分の想像する不幸」「自分の経験したものと同等・同質の絶望」が少しは存在してほしいという、この上なく邪悪で醜い欲望なのである。それが実現しない理由は、ただただ「作品にしても売れないから」の一言に尽きるだろう。
 つまるところ、所詮私たちは「後藤ひとり、ギター抜き」。何者かにはなれたぼっちとは明らかに違って、何者にもなれなかった存在にすぎない。誰もが自分の人生の主人公すらやれず、通行人Bでしかないグロテスクな現実を、今日も私たちは見て見ぬふりしている。

無キャに朝は降らない

 おそらくぼっちは、順当にいけば(あくまで順当にいけば、であることは留意されたし)「青春コンプレックス」を克服し、いずれあの曲は後藤ひとりという人間にとって過去の思い出のようなものになるだろう。対して現実で青春コンプレックスを拗らせている私たちは、未だにこうして世界に向かって管を巻いている。一升瓶を一度に飲み干しても、一日に3箱煙草を吸っても、腕がイカ焼きみたいになるほど切り傷を入れても、どうせ明日太陽が昇ったころには何事もないかのように目が覚める。
 何者にもなれない絶望は、決して私たちを殺してはくれない。


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