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権記と御堂関白記の後妻打ち(うわなりうち)(宇波成打)【史料で見る歴史】

鎌倉殿の十三人では、亀の前事件がけっこう大きく取り上げられましたね。

あれ、後妻打ち(うはなりうち)とされています。

筆者が後妻打ちを知ったのはタイムスクープハンターです。

もともと戦国時代が好きで勉強していましたが、当時は生活系の歴史はあまり調べてなかったので、番組内容は江戸時代とはいえ、とても興味深く見てました。

のろしをあげよとか旗振り通信をなぜか覚えています。それ以外は結構忘れてしまいました。

特殊な交渉術、憧れますね。物語の都合なのはわかりますが、こういうの好きです。

タイムスクープハンターは再放送をBSプレミアムでやってますので、もしよかったらどうぞ。NHKのページに飛びます。


タイムスクープハンターの後妻打ちは江戸時代の話ですが、この風習はかなり昔からありまして、古いやつを取り上げてみようというのがこのコラムの主旨です。

タイムスクープハンターのときに調べて、御堂関白記に載っているというところまではたどり着いたのですが、そのときは心の中の「へぇボタン」を押して終わってしまいました。

十年越しぐらいですかね、再度史料に挑戦したいと思います。亀の前の件を以前Twitterで書いたのですが、それにも関連する話なのでちょうどよいですね。

史料の引用について

権記と御堂関白記は国立国会図書館デジタルコレクションで読んでいるのですが、読み下し文は国際日本文化研究センターの摂関期古記録データベースから引用しています。

こういうデータベースは素晴らしいですね。誰か玉葉で作ってほしいです。

後妻打ちとは

言葉は時代とともに変わるので注意が必要です。というただし書きつきでお願いします。

まず、「後妻(うはなり)」とは「前妻(こなみ)」の反対語です。

意味は漢字そのままで、後から娶った妻のことを言います。中世では、だいたい本妻の後の妾を表すことが多いようです。

現代では、死別や離縁した先妻に対して、後から結婚した人を後妻と言い、そのイメージしかないですが、平安時代の貴族は通い婚で多くの妾を持っていたため、そういうことになるんですね。

それを踏まえたうえで「後妻打ち(うはなりうち)」とは、前妻が後妻を襲撃する行為のことを指します。下女などから結構な人数を集めて襲撃し、破壊行為におよびます。

記録としては室町時代や江戸時代に多いのですが、今回はそれを平安時代で見てみようという話になります。

権記でみる後妻打ち

まずは藤原行成が書いた権記から取り上げます。

寛弘七年(1010年) 二月十八日の話です。

十八日、戊戌。鴨院より忠光、走り申して云はく、「西対に濫行有り。是れ左大殿の権中将の随身并びに下女三十人ばかり、入り乱る」と云々。是れ彼の君の乳母蔵命婦の作す所なり。仍りて左府に参り、案内を申す。即ち御随身等を差し遣はす。余、亦、彼の院に向かふ。西対の故兼業の妻の居る所なり。祭主輔親、日ごろ寄宿す。嫉妬の為に彼の命婦、人を送るなり。内の財雑物、破損す。極めて非常なり。
権記 寛弘七年(1010年) 二月十八日
国際日本文化研究センター 摂関期古記録データベース

東三条殿西対を襲撃する藤原教通の乳母「蔵」

まず話の前半部分です。

十八日、戊戌。鴨院より忠光、走り申して云はく、「西対に濫行有り。是れ左大殿の権中将の随身并びに下女三十人ばかり、入り乱る」と云々。是れ彼の君の乳母蔵命婦の作す所なり。
権記 寛弘七年(1010年) 二月十八日 抜粋
国際日本文化研究センター 摂関期古記録データベース

藤原行成のところに忠光が、鴨院(東三条殿)から走ってやってきて報告をします。西対で、左大臣のところの権中将の随身と、下女三十人が乱入して暴れているという内容でした。これは権中将の乳母「蔵命婦」が引き起こした自体だとあります。

各言葉を調べた結果が以下です。

「忠光」は自分で史料見た限りではちょっと自信がなくて、多分三浦氏の祖の「平忠光」だと思うのですが…、今度ちゃんと全訳とか読んで調べておきます。

「鴨院(東三条殿)」は摂関家の邸宅の一つで当時は藤原道長所有です。

「西対」は貴族の邸宅である寝殿造りにおいて、主殿の西方にある対の屋のことで、だいたい女性が住んでいます。

「左大殿」は左大臣のことで、当時は藤原道長です。

「権中将」は近衛府の次官で、当時は道長五男の藤原教通です。

「命婦」は官人の妻や従五位下以上の女性を言う言葉で、「蔵」は名前です。

「随身」とは貴族が外出するときについてくれる護衛の人です。令外官ではありますが、ちゃんとした朝廷の仕事としてあります。時代によって違うようですが、中将には四人ついていたようです。

ということで、藤原教通の乳母が、教通の随身(おそらくMAX四人)と下女三十人を引き連れて、道長邸宅の西の建物に襲撃をかけたということですね。

三十人って意外とすごいですよね。

頼朝が挙兵して目代山木兼隆を攻めたときの兵数が、延慶本・平家物語に載っているのですが、徒歩の共なしで三十人から四十人とあります。詳しく知りたい人は以下で。

完全武装の騎馬武者と下女を単純比較してはダメだというのはわかっていますが、それを差し引いても、三十人はかなりすごいですね。

藤原行成の現場検証

後半部分も見てみましょう。

余、亦、彼の院に向かふ。西対の故兼業の妻の居る所なり。祭主輔親、日ごろ寄宿す。嫉妬の為に彼の命婦、人を送るなり。内の財雑物、破損す。極めて非常なり。
権記 寛弘七年(1010年) 二月十八日 抜粋
国際日本文化研究センター 摂関期古記録データベース

「余、亦、彼の院に向かふ。」とあるので、行成は自分で現場に行ったんですかね。行成は東三条院別当でした。要は道長邸の家政機関(政所とか)の責任者だったわけです。責任者として行かざるをえなかったのでしょうか。

東三条院の西対、故兼業の妻がいるところが現場だったようです。そこでは、祭主輔親が日頃暮らしていたとあります。嫉妬のため、蔵は人を送り、建物内の物を壊したとあります。

各言葉を調べた結果が以下です。

「故兼業」は多分ですが文徳源氏の「源兼業」っぽいです。「故兼業の妻」は「源兼業の未亡人」ということですね。

「祭主輔親」は大中臣輔親のことで、「祭主」とは伊勢神宮の神官の長官のことです。輔親は故兼業の未亡人のところで暮らしていた、つまりは故兼業の妻とできていたわけですね。

ちなみに「蔵」は輔親の妻です。

故兼業の妻は輔親の後妻だったわけですね。

蔵は後妻に嫉妬し襲撃したわけです。

建物内で暴れまくったのでしょうね。「極めて非常なり」が、現場を見た行成の気持ちを端的に表している気がします。内装とか、ボロボロだったのかもしれません。

というのが、権記に載っている一部始終です。

権記では「うはなりうち」という言葉は使われていませんが、前妻が後妻の家を襲撃するという典型的な「うはなりうち」のエピソードとして語られます。

この蔵さんは、かなり世紀末モヒカン的な人でして、もう一度やるんですよ。その様子が御堂関白記にあるのですが、こちらのほうが「宇波成打」として有名なんじゃないかなと思います。

御堂関白記でみる「宇波成打」

二度目の件は、長和元年(1012年) 二月二十五日で、前回から約二年後です。

こちらは小記目録にも載っています。

二十五日。祭主輔親家、嫉妬の闘乱の事。
小記目録長和元年(1012年) 二月二十五日
国際日本文化研究センター 摂関期古記録データベース

以下、御堂関白記の話です。

二十五日、癸亥。中宮より大内に参る。罷りて皇太后宮に参り、土御門に来たる。内に候ずるに、「祭主輔親の宅に家の雑人、多く至りて、濫行を成す」と云々。仍りて随身を遣はし、案内を問はしむ。「辰時ばかりの事なり。只今、一人も無し」と云々。仍りて家業を以て日記を成さしむ。「是れ蔵と云ふ女方のうは成打」と云々。家業、件の女方の因縁なり。仍りて此れを遣はす。夜に入りて、日記を持ち来たる。「面を知る者、只今、一人なり」てへり。搦め進るべき由を仰せ了んぬ。外記実国、内案を持ち来たる。触穢に依りて見ず。行なはるべき由を示し返し送り、皇太后宮大夫に上る。
御堂関白記長和元年(1012年) 二月二十五日
国際日本文化研究センター 摂関期古記録データベース

こちらは内容の抜粋にとどめます。権記と内容は似ていますが、権記に比べると描写が曖昧だからです。

まず、祭主輔親の宅に家の雑人が多く至りて濫行しているとあります。これは蔵という女方の「うは成打」だとあります。

自筆本の複製とかみると「宇波成打」と書いてあります。漢字が成立していなくて、音にあてただけなのか、道長が知らなかっただけなのかは筆者ではわかりません。漢字をわからない名前などに当て字するのは玉葉などでも見えますね。

ですが、この時期にすでに「うはなりうち」という言葉が成立していたことがわかる貴重な記録ですね。

人数とか、場所とか、相手とか、権記に比べると曖昧で、詳細がよくわかりませんが、道長が日記に記している時点で、同じ場所同じ後妻だったのかなと推測してます。ですが、はっきりしたことはわからないです。

この二年間、輔親と蔵と故兼業の妻の間で何が繰り広げられていたのでしょう。

昼ドラになりそうな話ですね。

おわりに

中世の人は公家も武家も一般人も、老若男女問わず、みんな結構暴力的ですよね~。

現代人で良かったです。

今昔物語集とか読むと、現代と価値観が違いすぎて「蛮族かな?」とか思います。

ですが、それじゃだめだと思う人たちもたくさんいて、そういう人たちが一歩一歩長年努力してきた結果が、現代の人権などの権利なんだなと、こういう話を読むと実感できます。

時代が下ると、後妻打ちにも作法というかルールというか、ある一定の条件が満たされたときに、決められた枠組みのなかで行われるようになります。その時の社会情勢に合わせて進化したようです。

「火事と喧嘩は江戸の花」なんて言葉がありますが、そういう見世物的な要素もあったかもですね。

現代ではもちろんですが、男女問わず離婚した相手に物理的に襲撃を掛けたらそれは犯罪ですし、多夫多妻は認められておらず不貞行為は民事訴訟的なアレになります。そうやって社会全体が変化してきたわけですね。

暴力的な解決は長い目でみると何も良いことはないのですが、暴力は人間の本能でもあり、それをルールと理性で抑制して、危険を少なくしてきたのが現代です。その延長線上に自分はいるんだなと、なんとも感慨深くなるエピソードでした。

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