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行家なんて縁者いたっけ?的な頼朝と水干【史料で見る鎌倉殿の13人】

鎌倉殿の13人の第三話では、頼朝がついに蜂起を決意します。

決意するまでにさまざまなことが起こるのですが、基本線は吾妻鏡の記述に沿ってストーリーが展開されます。

蜂起の一つの要因の一つが、源行家が持ってくる以仁王の令旨です。

頼朝を中心とした鎌倉の武家政権は、建前上、この以仁王正統とするという大義名分を掲げています。と言いつつ、頼朝令旨が来てすぐに蜂起したわけではないんですけどね。

今回取り上げるのは 、頼朝が、以仁王の令旨を持ってきた行家と対面するシーンです。

ちょっと細かいですが、史料のどこを参照していて、どこを変えているのかなどをマニアックに見ていきましょう。

行家という名前にピンとこない頼朝

頼朝「行家」なんて縁者いたかな~的なことを言いますが、これは吾妻鏡の記載が元ネタなんだろうと推測できます。同じようなエピソードは平家物語にもあります。

吾妻鏡は治承4年4月9日から本文の記述がスタートします。この4月9日は、後白河の息子以仁王が、源頼政と共に、平家打倒を決意し、以仁王の令旨行家各地の源氏に伝えるよう命じられる内容です。

行家に関する記述を抜粋してみましょう。

そこには、源為義の末子である十郎義盛に令旨を渡したとあります。さらに義盛八条院の蔵人になったとあり、その割書きに名前を行家と改めたとあります。

仍仰散位宗信、被下令旨、而陸奥十郎義盛(廷尉為義末子)、折節在京之間、帯此令旨、向東国、先相触前兵衛佐之後、可伝其外源氏等之趣、所被仰含也。義盛補八条院蔵人(名字改行家)

吾妻鏡 治承四年 四月九日 抜粋

ドラマで頼朝は「十郎叔父のことか」といいます。

もともと義盛という名前だったのを行家に改めたため、頼朝はそれを知らなかったという設定にしたわけですね。吾妻鏡の改名の記載をうまく利用してストーリーが作られています。

細かい演出ですね~。

令旨を受け取る頼朝の服装が変わる場面

次もちょっとマニアックなネタです。

無事に?行家のことを思い出した頼朝は行家と対面し、以仁王と源頼政による平家打倒のたくらみについて聞かされます。

その際に、行家は以仁王の令旨を渡そうとしますが、家人の藤九郎がもらおうとするとそれを咎め、それ相応の対応をするべきだと言いだします。

その後、ドラマではカットが変わり、頼朝の服装が変わった状態で、頼朝自身が令旨を受け取るシーンに切り替わります。

マニアックですが、これも吾妻鏡に元ネタがあります。

廿七日 壬申 高倉宮令旨、今日到著于前武衛将軍伊豆国北条舘。八条院蔵人行家、所持来也。武衛装水干、先奉遥拝男山方、謹令披閲之給。

吾妻鏡 治承四年 四月二十七日 抜粋

頼朝水干を着て、男山を遥拝し、令旨を受け取ったとあります。

水干ですが、もともと下級貴族の服でした。その後上級貴族も着用するようになり、さらには庶民の晴れ着などにもなります。襟をひもで結びつけているのが特徴的な着物です。

鎌倉時代には武士の正装の一つにもなりました。

水干狩衣という、清涼殿警護役の滝口武者が着ていたものがあり、それがもとで武士にも広まったのかもしれません。

鎌倉殿の13人では、行家の胡散臭いキャラ付けもあり、行家の提案で装いを新たにするという演出でしたが、装いを正して受け取ったエピソードの元ネタは、この吾妻鏡の記述なんだろうなと思います。

これも細かいですね。

おわりに

今回はかなりマニアックなネタを取り上げました。見逃しちゃうねさんもきっと喜んでくれると思います。

吾妻鏡の記載をそのままストーリーにするのではなく、独自のアレンジを加えて小ネタ的に使われているところが面白いです。

吾妻鏡には水干を着て受け取ったとしかありませんが、それを利用してのあのシーンというところ、とても発想が面白いな~と思います。

行家のうさん臭さも良く表現されていますし、この回では、同じうさん臭い仲間の文覚も出てきてます。文覚と源義朝のしゃれこうべの話は平家物語にありますので、気になる方はそちらを読んでみると面白いと思います。

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