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誰が「罪」を決めるのか

”世界の教養” 今回はソドムとゴムラ。
ゴジラみたいと思ったけれど、町を滅ぼす話だからあながち遠くない。
もしかしてゴジラはソドムとゴムラの話からきたのだろうか。

この話を読んで興味深かったのは、ソドムとゴムラの人々がどのような罪を犯していたのかははっきりしないということだった。
町が滅ぼされるなんて重大なことなのに、その原因となる罪がよくわからないなんて。「神」が決めたらしいけど。

でも翻って考えると、現代社会でも、実は「罪」はあいまいだ。

たとえば、刑法では暴行罪や傷害罪はあるけれど、これらは有形力の行使が必要で、無形である言葉による暴力は暴行罪に問われない。
言葉でどんなに傷つけられても、加害者は罪に問われない。酷いことを言われて、許せずに手が出ると、たいした傷でなくても、手を出した方が裁かれる。正当防衛にもならない。

たとえば、殺人罪もあるけれど、これはある一時点の、一つの行為が前提となっている。長時間かけて、複数の行為によって被害者を死に至らしめる場合は殺人罪に問われない。
いい例がいじめ。いじめによって自殺に追い込まれても、加害者が殺人罪に問われることはない。
なぜだろう? 人を死に至らしめているのに。

ソドムとゴムラの町が滅ぼされるかどうかは大事な問題なはず。
でもソドムとゴムラの人たちがどんな罪を犯したのかはわからない。
町を救うのを決める「正しい」人10人も、何を基準に正しいと判断されるのかはよくわからない。
大事な話なのに、わからないことだらけ。
でも、そんなものなのかもしれない。

正しい、悪い、も相対的だ。
罪も、人によって、社会によって揺らぐ。
大事なことだからといって、確かなことだとは限らない。

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