「文豪たちの悪口本/彩図社文芸部編」リブリオエッセイ
文豪たちの悪口と聞いて、「太宰治」の名前しか浮かばなかった。
私は小中学生の頃、なぜか太宰治と中原中也に傾倒していた。
いやぁ、なんとも歪んだ子ども時代だ。
太宰治は太宰、中原中也は中也、芥川龍之介は芥川、小林秀雄や坂口安吾‥‥。
彼らが同世代を生き、密で熱い交流があったことを知ったのは、日本文学とは縁がなくなった大人になってからだった。
たしか、テレビドラマだったと思う。太宰治のダメダメぶりとともに、文豪たちとの交流が描かれていた。それから太宰に、より興味を持つようになったのだから、大人になってもどこか歪んでいたんだろう。
最近の作品だと、小栗旬が演じた太宰治だ。
脚色された映画だから、どこまでが真実かは定かではないにしろ、現実を元に作られているのだから、根っこはそう違いはないだろう。
もちろん、この作品でも文豪たちの悪口はひどい。
しかし、くだらないとは感じない。
これがあるからこそ、それぞれが、後世にも残る作品を生むことができたのではないか。
温室にいては、人間を深く洞察した作品など書けるまい。
現代、日本人の皆が、お利口さんになりすぎて、平坦な感じがする。
馬鹿げたくだらないぐちゃぐちゃな空気感のなかにこそ、人間の本質が現れるのかもしれない。
太宰の生き様を知るからこそ、作品を深く読むことができるはすまなのに、太宰治大先生ぐらいの勢いで、子供達に読ませてなんの意味があるのやら、と思わずにはいられない。
太宰治の時代、文豪たちは酒場に集っては、お互いに言葉を操った悪口の応酬を繰り返し、作品を書くエネルギーにしていたに違いない。
風の時代と言われる今日、クラブハウスに集う著者先生たちにとって、お互いを褒め称えることが、今時の作品を書くエネルギーなのだ、としておこう。
危ない危ない、危うく「著者見習いの悪口」に突っ走るところだった。
今になって、文豪たちの生き様を垣間見てから読む日本文学はいとおかし。