食の幸せ


今日は久々に、お店のカツカレーが食べたくなって、ココイチに寄った。


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(ごろごろ野菜×カツカレー。これでスモールサイズ)


なんか、運ばれてきたカレーを見ながら、

そして口に運びながら、

『食の幸せ』

のようなものを、しみじみと感じた。


食って、なんて幸せなんだろうか。

食卓に向かう時

食卓を囲む時


それが一人でも

誰かとでも

なんだかこの頃は、とても温かい心地に包まれる。



それで、そんなことを思いながらカレーを

待ってる間に、思い出したことがある。


うちの父は、三鷹でとある定食屋を営んでいる。

我が父ながら、ボリューミーで安価で、美味しい定食屋さんだと思う。


几帳面な性格も手伝って、調理場もいつもピカピカだ。

(私と違って。笑)


小学生の頃には離婚して、離れて暮らしていたので、

時々遊びに行く時くらいしか、そこの定食屋でご飯を食べることはなかったのだけれど

食の幸せを感じながらボーッとそんなことを思い出していたら、


なんだか急に、定食屋を営んできた父が誇らしくなった。


私は一般的な親子に比べると、父との時間はとても少なかった方だと思うし、

直接的に注がれた愛情も多いか?少ないか?で言うと、

不足を感じることはあっても、充分だと感じることは多くはなかった。


だからと言うわけではないが、

父に対してこんな感情が芽生えるなんて・・

と、書いていて妙に感慨深いものがある。



誰かのことを尊敬したり、好きになったり、感謝の想いを抱いたり。

そういうことは、これまでずっと『直接的な』関係において起こるものだ、と限定していたのかもしれない。


直接的な関係とは、例えば

『相手が私にしてくれたこと。関わりや時間や行為やモノを通して私に愛が注がれること』であり、

『私が相手にしたこと。関わりや時間や行為、言動やモノを通して具体的に愛を行い、表現し、与えること』

なのだけど。


もう、それだけを愛と呼ぶのは、卒業してもいい頃かもしれない。

なんだか急に、その限定はお子ちゃまに思える。笑



とはいえ。

恋愛においては、実は一足先に

『自分自身の好きという気持ちだけで完結される幸せ』を感じていたので


親子関係においては、ある意味しつこく『直接的な関係での愛情の証明』を

求め続けてきたがゆえの、今更、と言えなくもない。笑


まぁ、なにはともあれ

今日も食のある幸せを感じながら

生きるのだ。










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