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明治期における郡山と須賀川・岩瀬地方

昨日からの続きで、本業の合間に少しずつ岩瀬牧場の情報を収集中です。
とは言っても、観光牧場としてのピークはやはり私が子どもの頃(つまりバブル期)だったのでしょう。

コロナの影響で外出自粛ムードとは言え、久しぶりに訪れて「動物が随分少なくなったな~」と感じたのも事実です。

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昔は、ポニーの試乗体験も出来たんですよ。馬場を1周するだけで500円取られましたが(笑)。

1.安積開拓と岩瀬開拓の経緯


ところで、以前福島太郎さんと「その話~」をめぐって、岩瀬牧場についても少し触れています。
その際に、「安積開拓」の一環として「岩瀬牧場」の開拓もあったのでは?という談話があったのですが、調べてみるとどうも違うようです。

ざっくりまとめると

安積開拓
明治6年:阿部茂兵衛と県令安場保和(やすばやすかず)の意向を受けた中條政恒らが協力し、官民協力事業として(県と民間企業である開成社による共同事業)、安積開拓事業がスタート。

明治9年:明治天皇の第1回東北巡幸。
※このときに、大久保利通が同行していたことが、郡山にとってはラッキーだったのかもしれません。
大久保利通と安場保和は、岩倉使節団仲間であり、共に欧米の視察に当たっていたようです。

明治11年 安積開拓が国営事業化。

というように、大久保利通が深く関わったのが安積開拓。
ただ、順風満帆とはいかなかったのは、よく知られたところでしょう。

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一方、岩瀬牧場。
こちらは発祥が少々神話めいていて(笑)、やはり第1回の明治天皇東北巡幸の際に、「ここを開拓するように」というお触れがあったとかなかったとか。

はっきりと史実に現れるのは、明治13年のこと。
この年に、宮内省御開墾所が六軒原に設立されています。今の須賀川市と鏡石町の境付近ですね。

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(出典:https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila/75/5/75_547/_pdf)

こちらは、内務大臣伊藤博文の意向を受けて、決まったようです。
後に、「御料地」として認定されていますから、「全ての土地と人民は天皇のもの」という考え方に基づいて開拓されていたのは確かで、勝野源八郎を責任者として開拓の指揮を取らせています。

手始めに300haを開拓し始めましたが、そのときに投入された費用は2,068円12餞だそうです。
明治時代の金銭価値は分かりませんが、明治時代の1円は現在の2万円に該当という試算がありますから……。
<参考|昔の「1円」は今のいくら?1円から見る貨幣価値・今昔物語

現代の金銭価値に換算すると、41,362,400円でしょうか。でも、実際にはもっと莫大な金額になりそうな気がしますね。

この300haのうち、

荒地:80ha
耕転地(土の入れ替え作業?):11ha

が使い物にならない土地だったのでしょうね。

さらに、ここに

労働力:延べ3,800名
牛:1,300頭(鋤などをつけて耕させたのでしょう)
馬:341頭

を投入して、牧場開拓が始まったことになります。

2.実はライバル視していたのかもしれない

また、興味深いのは、昨日披露した杉村楚人冠の「牧場の一夜」のうち、「岩瀬牧場の昔」の部分です。

岩瀬牧場の昔
  いよいよ牧場の中だ。道幅はかなり広く取ってあるが、何分一面の草で、僅かに左側に馬車を通ずるだけの道が残ってあるきり。それも雪解けのどろどろ道とて足の踏み入れ処もない。行けども行けどもこんな道ばかり。
 行いて行きつく所を知らぬも道理、牧場の総面積六百五十町歩ある。之を坪に引き直して百九十五萬坪といへば、如何さま少しわかる。
 明治十何年という頃、政府は九州邊の貧乏士族を猪苗代の近所に移住させて安積農場なるものを開いたことがある。ところが、日本に初めて試みた大農制のこととて、何も万事が思ったやうに旨く行かない。此に於いて、時の宮内卿であった故伊藤公爵が、何でも之は政府で同じ経営を試みて模範を示すに限るとあって、此の岩瀬の御料地に岩瀬農場なるものを開いた。
 然るにこの農場もとんと旨く行かぬ。若しだれか今までの事業を継続し得るような然るべき借り手があるのなら何時でも貸そうという事になった。之を聞き込んで、よしそんならおれが引き受けようと出てきたのは、今の司法大臣岡部子爵である。かくて明治二十三年から十七年間もっぱら岡部家の経営する所となった。

この頃には岩瀬牧場が既に広く知られており、ある程度経営が軌道に乗っていた時期だと思われます。
面白いのは、「安積開拓」にも触れている点ですね。

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大久保利通は明治11年に暗殺されていますが(紀尾井坂の変)、タイミングからすると安積開拓の国営事業化が決まった直後に暗殺されています。
これに対して、大久保の後継者的なポジションを得たのが、伊藤博文ということになるのでしょうか。

安積開拓も岩瀬牧場もそうですが、東北地方の開拓が進められた背景には1871年(明治4年)の廃藩置県などを受けて、大量の士族の失業者が出たこととも関連しています。

1.士族失業→やってらんねー、政府のバカヤロー(明治7年佐賀の乱、明治9年神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など)

2.うわー、内乱になったら困る(´;ω;`)
今更大量の士族を食わせていくわけにはいかないから、殖産興業を兼ねて、士族に東北地方を開拓させるか
(いわゆる、士族授産の一環)

3.全ての土地と人民は天皇のものだから、殖産興業を正当化するのに、御料地もじゃんじゃん制定して、東北でも政府のやっていることを認めさせよう
(何せ戊辰戦争で、薩長は目の敵にされている)

という、様々な思惑を含んでいたことがわかります。
このうち、郡山は2をコンセプトにして開拓を進めたのでしょう。ただ、楚人冠のいう「安積農場」がどの辺りにあったかははっきりと分からないんですよね。

この安積農場の失敗を、伊藤博文はどう思っていたのでしょうか。
「何でも之は政府で同じ経営を試みて模範を示すに限る」という楚人冠の言葉からも分かるように、あまり好意的には捉えていなかったのでしょう。

ひょっとすると、「藩閥」意識も、多少はあったのかもしれません。
(大久保利通は旧薩摩藩、伊藤博文は旧長州藩の出身で、薩長同盟が成立する以前は犬猿の仲)

個人的には、大久保利通に対する対抗意識もあって、岩瀬地方の開拓を示唆したのではないかとも思うのです。
それで、3の「御料地」開拓(うまくいけば、天皇家の財産も多少は増えるかも?)に踏み切ったのかもしれません。

3.江戸時代に所属の藩が違っていたことも関連?

さらに、時代は少し遡って江戸時代。
郡山市のHPを調べていて、「郡山市は江戸時代末期には宿場町として栄えました」という趣旨の記述に「え?」と目を疑いました。
「江戸時代の宿場町は、須賀川でしょ?」と。

ただしこれは、江戸時代の藩政の管轄が違うことに由来するのかもしれません。
須賀川は白河藩の領域だったのに対して、郡山は二本松藩。宿場町は、各藩ごとに整備する必要があったそうです。距離にして10km強しか離れていない隣町同士でも、同じ奥州街道沿いの宿場町としてそれぞれ独自に整備された可能性もあるのでしょう。

そんな藩の気風の違いも、明治時代にはまだまだ強かったのかもしれませんね。そう考えると、安積開拓と岩瀬地方の開拓が実質的に別物だったのも、頷けるところなのです。

まあ、この岩瀬地方の開拓もなかなかうまく行かず、明治40年に岡部長職(ながもと)子爵(元、岸和田藩の藩主)が御料地を拝借したのをきっかけに、牧場経営に乗り出したことで本格的な開拓へつながっていくのです。


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