区別をするという配慮への違和感

社会に出て働くようになってから、人には性別があることを理解した。それまで私は、自分が女性だからとか、相手の性別が男女のどちらかであるからといったように意識して生きてきていなかった。

働くようになってから「女性陣」という言葉をよく耳にするようになった。女性陣という言葉に馴染みがなかった私は、どうしてそうした区別を行うのか意図が理解できなかった。発している方が悪いのではなく、昔保健体育の授業を男女別で行っていたというような当時なりの配慮と似たものがあるのだろうと思った。(私は男女合同だったので憶測でしかないけれど)

他にも私の部署では女性だけオフィスカジュアルを行使し、男性は行使しない。他部署にある制服は女性のためだけのものだった。男性のものは用意されていない。


私はフェミニズムのような違和感を言いたいのではない。私自身のジェンダー的な側面に関して考えを綴ろうとしている。


まずは、私がこれまで相手の性別を気にすることなく過ごしてきたのはなぜかという欠片の話をしよう。


欠片①「ボーイッシュ」な先輩

小学生のころ「ボーイッシュ」な先輩がいた。小学生の頃だとまだ先輩なんて呼び方はしなかっただろうが、その先輩はサッカークラブに入っていたり、髪を短くしていたり、振る舞い自体も男性のような方だった。だけれど誰かがある日「あの先輩は女性だよ、女性用のトイレに入ってくところ見たもん」といったところから話は始まった。たしかに私も先輩が女性列に並んでいたところをみたことがある、しかし他の人は「男性用トイレに入っていくところみたことあるよ」と言って、私たちは驚いた。嫌悪などではなく、「トイレってどっち入ってもいいの!?」という驚きだった。そうして私たちは「それならまあどっちでもいいか〜」と、気にすることをやめた。


欠片②制服のバリエーション

私が通っていた学校は中学高校とも制服があった。男性はパンツスタイル、女性はスカートスタイルといったものだ。ほとんど皆その通り着こなしていたが、皆「実はパンツスタイルを望めば履ける」ということを知っていた。リボンやネクタイを外すことも可能であり、望めばいくらでもアレンジができた。実際にパンツスタイルの人も数人見てきたし、パンツスタイルだから浮くと言ったこともなかった。むしろ「パンツスタイルの方が楽じゃんね〜」という声をよく聞いた。ただ集会など形式的な場では女性はリボンの着用が求められたため、実行に移す人は少なかった。(変な校則ではなく、ここの配慮を学校側がただ失念していただけだと思う)


欠片③男女合同の部活

学生の頃していた部活に男女の区分がなかった。他の競技ではあったが、私の部活にはなく、ウォームアップやランニング、練習試合や打ち合わせまで男女合同で行っていた。そのおかげで嫌なときや好むとき、悩むときや頑張るときも人間という枠組みで会話をして過ごしてきた。何かが起こったとき人が思う感情に、ほとんど男女の区別などなかった。


欠片④個人主義の私立

私の学校は完全に個人主義だった。幼稚舎などはない私立の大きな学校で、クラスメイトのこれまでの経歴も出身も学力も目指すところも全て違った。公立学校では一定の学力が必要だったり出身もある程度定まっていたりするため、価値観が似た人が集まりやすいという話を聞いたことがある。通っていないからわからないけれど。ともかく私の学校ではすごくお金持ちの方がいたり、スポーツスカウトの方がいたり、難関公立の滑り止めで仕方なくきた方もいたりした。価値観がとにかく違いすぎて、足並みを揃えようなんて到底思えなかった。それはきっとみんなそう思っていて、「みんなが別の方向を向くために背中を預ける」といった不思議な団結感が私の周りにはあった。


欠片⑤目標とする人

幼い頃から強いキャラクターやかっこいい有名人に憧れることが多かった。それが恋愛へ向かうのではなく「自分もああなりたい!」と思っていた。だが空手や書道を習ったり喧嘩をしたり髪を短くしても自分がその人になれることはなく、「なるのは難しいけど、自分の好きな系統をみつけていまの自分からそこに雰囲気を寄せて行こう」と目標を改めた。好きな系統であれば、性別関係なく人を見ていた。


詳しく書くともう少しあるのだけれどこうした欠片が積もって行って、私は男女という不確かな区分より、人としてその人が何を考えているのかについてを重要視するようになったと思う。


ではこうした環境下におかれていた私が現在自分自身に対してどう思っているのかについて。

私は自分のことすら性別の枠組みで捉えることをしなくなっていた。結論を言うと、私はノンバイナリーという言葉がしっくりくる。

確かに戸籍上の性別は女性だし、女性欄に丸をつけることに特に抵抗もない。ただ自分の嗜好や行動に対して「女性らしい」と言われると違和感を感じる。それは例えば自分が何かで赤を選んだとき、「梅干好きだから赤だと思った!」と言われたときくらい的外れで思わず「いやそういうわけじゃなくて…」と声に出したくなるような違和感だ。音楽好きな人は名前を出したアーティストに対して、「サブカルすきだもんね〜」と言われると、「サブカルだからすきなんじゃなくて…!」と反論したくなるだろう。

だからといって女性的な物事が嫌いなわけではない。学生の特権のような短いスカートも大好きだし、自分の体も大好きだ。ただ女性的だから好きなのではなく、私がそれを好きだから好きなのだ。あくまで選択の権利や区別の権利は私が持っているのだ。


恋愛についても、誰か一人と恋愛感情を持って生涯寄り添うというよりは、「家族愛や友人愛にかかわらず愛する大切な人たちを見守り、困っているときは真っ先に手を差し伸べられるように待機していたい」という気持ちが強い。恋愛感情がそこにあるかどうかは私にとって関係がなく、誰か一人を選ぶことも私にとっては特にしたいことではない。ずっと一人でいたいわけではないけれど、相手が恋愛感情一心で自分だけに寄り添えと言われると私にそれはできないから、世の中でいう恋愛というのは難しいのかもしれない。いくら愛していても、私は恋愛感情よりただ愛として愛の感情を持っているから、一人だけを愛することを望まれると困惑してしまう。同じ価値観を持っているか、私の気持ちを理解してくれる人が現れてくれたらそれはとても幸せなことだ。


長々と語った上に話の終着点も特にないのだが、どうしてこれを書いたのかというと、最近久しぶりにとても綺麗な顔立ちで素敵な、目標となる芸能人の方を見つけたからだ。私自身が性別の枠組みを抜きにしていても他人がそうとは限らないから周りに「○○みたいになることを目標にしてる」というのは言いづらかったため、こうして書き綴ることで消化することにした。

ここまで語ってきた考えもいつか変わるものかもしれないけれど、こうして考え続けたことで胸につっかえていたものが抜けた感覚を、今後も覚えていられたらと思う。

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