第二回「一万文字書くまで寝れません。」

 ウォーミングアップもせずに、また何かを書く。書き始めたら最後、回転が回り続ける。おっと、良くない癖が出てる。理解されなくても、いろんな理解があっても良い文章ばかり書いて、それを詩と呼んで、それはそれで素敵なのだけれど、そればかりに逃げてた。ちょうど良い。少し長めの休みがもらえて、時間にかなり余裕が出来た。ちょっとここらで冷静に、自分の気持ちを整理して、詩じゃない文字を書いてみる。いわゆる人生の棚卸。

 まずは、何になりたいか。とか考えてみる。
 就職して一年経って、やりがいは感じるし、楽しいし、出来る事が増えている感覚もあって、プライベートも無視してなくて、最高とまでは言わないが結構、いい感じの社会人してると感じている。けど、今の仕事をずっとするつもりは、なぜかまるで、ない。単純に最高を目指したいのかもしれないし、働く事が嫌いなのかもしれないし、突き抜けた努力が出来てないからかもしれないし、自己評価が高く俺はこんなもんじゃないと、もっと輝ける場所があるはずだと感じているからかもしれない。
 誰にも何も言われなくても、続けてこれたことは、ランニングと詩くらいで、本当の趣味は音楽を聴く事、本を、文字を読むことは割と好きだが少し頑張らないと夢中になれない。きっと、本の虫というくらいありえないほど本を読む人に比べると読書が好きとも言えないし、本を取り上げられたら生きていけないなんてこともきっともうない。最近は専らTwitterとか、ランダムな、読むのに集中力の要らない媒体からばかり文字を摂取して、動画やラジオで頭を満たして対して何も考えず、音楽でテンションをあげてばかり。それがいけない事だとは断言できないが、それが良くないと自分で思って、少し自己を嫌悪したりするから厄介。じゃあ何がしたいのって言われてもそれは全然見つからない。じゃあとりあえず目の前の仕事がんばれよってなるけど、それはある程度頑張ってるんだ。しかし、でも、と、何か他に、やる事ばかりを探してる。
 どうしたいの、という言葉を自分に突き刺した10代最後の夏。何がしたいの、と考え続ける20代。かっこよくなりたいとは思うし、賢く面白くなりたいとも思う。それは頑張る事を放棄した先ではなりえない姿で、がむしゃらに頑張る、という歳、というかライフステージでもない。頑張る事は自分で見つけなくっちゃとも思うし、ふわりふわりと沢山のやりたい事も見えてくるが、遠くから見ればどれも魅力的でどっちつかずに、近くで見ると地味で大変でやり切らずに。自分の価値観ので認めた自分を認めて欲しい、簡単な尺度は年収。無条件の愛はもう飽きるほど浴びてるから、条件付きの選ばれた愛を求めたい。そしても無条件の愛を注ぎたいから、だから早いうちに子供が欲しい。自分が働き盛りで、生き盛りの時期に、無条件に愛すべき存在がいて欲しい。きっとそれは支えになる。子供の目線が道しるべになる。
 そんな理由で子供が欲しくて、そんな理由で人を愛して、そんな理由で何かを夢見て、抽象的な悩みに身をやつす。気持ち悪いとは思うよ、思うんだ。けれどそれは後ろ暗い褒め事、気軽に、明るく言っちゃいけないんだ。
 分からないとか、分かるとか、分かってほしいとか、分かってるとか、そんな言葉にすぐにすがる、そうやって時間を稼いでる。話がそれてるし、独りよがりになってる。一回しきりなおそう。

 書くことが好きだ。
 何かを書いていて、考えが少しずつ変わってくる感じが好き。自分が書いたものを後から読むのが好き。書いたものが誰かに読まれるのが好き。そんなところ。書くことがいつか仕事になれば良いのにと思うけれど、いつかはまだ先でいいかなとも思う。僕が何かを書けるのは今のところ生活があって人がいるからだし、きっと経済的に、逼迫していないからのんきに何かを書いていられる。書くことが苦しくなるのは嫌だ。
 とか言ってるのも言い訳なんじゃないの、と思う自分もいる。書くことが好きで、いつか書く事を生業にしたいと思うのなら、何故、今、挑戦しない。多分、書く仕事に挑戦したほうが、かなり早く、書く力は、上がる。就職して、社会人になって、仕事をはじめて、実感してる。「やってみるのが一番早い」。ならば、人の役に立つ文章を書いて、お金を稼ぐ事をなぜしない。
 きっと怖いのだ、と言いたくなるけど、それは嘘。面倒くさいのだろう。好き勝手インスタグラムで、詩もどき、これはよくないな、自分なりの詩を書いている時には何も何にも、責任は発生せず気楽。でもお金を貰うために、誰かの役に立つ文章を書こうと思ったらかなり大変だし、自分の出来なさに直面してしんどいし、そしてやっぱり努力がかなり必要。努力、という曖昧な言い方は良くないな。しっかり時間を取って、ストレスを感じながら、頭を使わなきゃいけない。それが嫌なんだろう。
 今日はやけに自罰的だな。自分の頑張りも少しは認めてあげなきゃだめだ。正直、文字を書くことに関しては、少しづつ、少しづつ、やり方を変えて、人に認められる事を意識しながら、続けられる方法を模索してる。あまり、自分を責めすぎない。大丈夫。才能はある。あとは努力するだけ。

 ちょっと別な話題をしよう。ちょっとした悩みと、それが解決をみたという話。
 最近、やたらとお酒が飲みたくなることが悩みだった。夜、なんとなく楽しくなりたくなって、アルコールを欲してた。たまらず飲んでしまう事もあったし、飲まずに我慢して寝た事もあったが、飲みたい気持ちと飲みたくない気持ちがせめぎあってある程度しんどかった。
 どう解決したのか。というと、ただ急にあまりお酒を飲みたくなくなった。特別なことはしていない。冒頭に書いた通り僕は、今日から少し長めのお休みで、それで昨晩は久しぶりに本格的にお酒を飲むかと張り切っていた。しかし、仕事が終わって、家に帰って、一息ついて、後、全く飲む気が起きなかった。不思議だな、と思った。しかし、少ししてある可能性に思い至った。
 「酒を飲まなきゃやってられない」という言葉は聞いたことがあった。僕は、その言葉にえらく反感を覚えていた。酒を飲むと、お金もかかるし、酩酊して時間も無駄にするし、そのあとの体調も悪くなる。だから、「お酒を飲まなきゃやってられない」なんてことが起こる訳がないと考えていた。あるのは「お酒を飲んでもやっていける」甘い状況だけだろう。と粋がっていた。しかし、僕はいとも簡単に、お酒が飲みたくて飲みたくて仕方なくなった。
 無性に飲酒がしたくなった原因はきっとストレスや疲れ。そういえば、かなり仕事で疲れを感じていた。本読もうとか、アニメ見ようとか、そんなことにもあまり集中できていなかった気がする。何ならそれが酒飲みたい原因かも、と考えていた所もあって、無理やり読書して疲れてた。ごめんね、タラ・ダンカン。
 今回良くなかったのは、自分がストレスを感じていたり、疲れている事を認めようとしなかった事。そして、楽しくなる事で疲れを誤魔化そうとした事。お酒を飲むのは、ストレスの解決策にはならないという想いは変わらないので、今後無性に酒が飲みたくなったら無理してるのかなと思って休むことにします。

 自分があまり体力がなく、すぐ疲れてしまうと認めるが嫌だ。
 ここ三か月くらいはぶっちゃけ結構仕事が大変だった。少なくとも僕のキャパは超えてた。4月とかは、ミスしまくって、そのせいでやる事が増えて、時間がなくなってミスする、の繰り返し。自分はある程度頭が使える人間だと思っていたが、それはきっと余裕がある時の話で、余裕がある時に頭が働くのは、それはもう誰でもそうな話で、その余裕をどう生むかが肝心。
 それと体力も大きな要因。どうやったら体力はつくんですかね。走ったり筋トレしたりするのとはまた、別の話な気がするし、まあ野球に必要な筋肉は、野球でつけろってのが僕の考えなので、仕事の体力は仕事でつけるしかないのかね。そう考えると、受験勉強を頑張った人や大学で忙しい学部に進んで大変だった人は、やっぱり強いのかもしれないね。
 頑張らない生き方もありな時代。ただ頑張らなかった結果出来上がるのは、頑張らなかった人間。それが良いか悪いかはもう人それぞれの価値観。頑張らない自分を許すのも価値観だから尊重されるべき。でも忘れちゃいけないのは、逆も同様に尊重されてしかるべき。さらに言えば、価値観を変えたい思いも一つの価値観で、それらすべてが尊重されたうえで、みんなが幸な超スーパーウルトラ素敵な世界を僕は求めていて、その一員でありたい。
 もう十分、頑張らない人生の実践はしてきて、その結果超ウルトラスーパーな自分にはなってない訳で、それは超ウルトラスーパーな世界の一員としてはどうかと思うよね。自分の事は好きだけど、でもあんまり凄いとか魅力的だとは思わないし、鏡の前に立って、かっこいいと思う事はあっても、内面はてんでダメ。かろうじて発言や行動がイケてるときはあるけど、それはたまたまだったり、理性でそうしてるだけ。本能でイケてる男にならなきゃな、と思う。

 ちょっと休憩したら、猛烈にテンションさっがって書く事がなくなった。もう12時回ったし寝たい。けれど、寝れませんとか言って、途中まで投稿してしまったせいで、引くに引けない。良くない。楽しくて、文章書いてたはずなのに、義務感が強くなってる。なんか、でも、そんなこと多い気がする。誰かに、自分がやっている事を報告したことで、その行動が努力になってなんだか、しんどくなったりする。誰かに言った方が継続できるとか聞いたことがあって、そう思い込んでやってたけど逆効果のこともあるのかも。
 多分僕は、努力が出来ないとか不真面目よりも、センスや才能がないと思われる方がよっぽどいやで、へたくそな努力を見せたくないのかもしれない。誰にも見られないと思えばそこそこの出来栄えで満足できるが、人の目線を感じると急に固くなる。そういえばツイキャスなんかをしていても、人が来ると急に気になっちゃって口が回らなくなったりする。
 もちろん人目を気にして、良い事もある。見栄えを気にすれば、当然出来栄えはましになる。だけどストレスは高くなる。結局、精度の高い行動を続けられない、怠惰でどうしようもない自分を、それでもなだめてすかして、明日を見る。近い将来苦しくならないために。

 GWは何をしようか。連休の初日が終わりそう。人と会う予定は、ある程度立ててて、その合間に何をするか。基本は、書く、読む、観るになるのだろうな。ただ、長いと思った連休は意外と短いという事を、経験上私は知ってる。だから、予定を立てずに、適当にやってると、何も出来ないまま、連休は終わる。やるべき事リストアップしよう。
 まず、転職のことを考えなくちゃいけない。まとまった時間があるからチャンス。しかも、会社と関係のない人たちに会うから、壁打ちも出来る。アドバイスを貰おう。親とか。兄弟とかから。こればっかりは、今のところまだ、深い霧の中で、何を考えたらいいのかもわからないままで。何冊か本を読むのもいいね。別に、何が出来るってわけじゃないけど、この先どうしていくかの予定くらい立てたいな。

 そして、読書がしたい。けれど、読みたい本を、読みたいだけ読むほど、時間の余裕はない。だから、絶対読みたい本を2冊、決める。7つの習慣は読み切りたいけれど、一気に読み切る本でもない気がしてる。さらっと全部を見て、そして少しずつ実践していこう。
 そうすると、ブッダとそのダンマを読みたい気持ちが、結構大きい。間違いなく、僕に大きな影響を与えた一冊で、しかし、内容はぼんやりとしか入っていない。これは一日仕事になるな。読みなおそう。そうしよう。
 正直、ディスコ探偵水曜日は、無理。限界みたいな深夜があればあるいは、読めるかもしれないが、まだ今じゃない気がしてる。というか小説系は予定が組みにくい。気分で読みたい本は変わるし、家の中で、じっと本を読んでいたり出来ない。どうしても何か書きたくなる。
 化体は読みたい。コンディション整えて読もう。詩の楽しみを、そろそろ、体に染みつかせる時。
 後は、大全系だな。ただ、実践してなんぼみたいなところがある、独学大全、アイデア大全、問題解決大全。GW内に3つは実践してみようかな。

 何がしたのか全然まとまらない。意外とほんとにやる事がない。ただ、最近久しぶりに、ブログを開くと、コメントがついていて、なんだか少し気持ちが、上がった。しかも、アドセンスが通ったりした。ブログへのモチベがちょっと上がってる、ブログの更新もしようかな。

 さて、書くことがなくなってただの日記になってる。考えもまとまらい、名文も生めない。何のために書いてるのかわからなくなってきた。どうしよう。どうしよう。目の前にやるべき事があれば、今なら頑張れる。だけど、大人は、何を頑張るか自分で考えなくちゃいけない。
 選択肢を増やすために勉強しなさいと大人は言った。よく分からかったし、響かなかった。子供が出来たらなんて言おうか。それが分かるまでは学びつずけなくちゃな。
 何をすれば良いか、何をしたいか分からないなら。何をしても良いんじゃないかな。何でも良いから、何かしてたら、それをつないでいく道が見つかるかもしれない。文字を書いて、文字を読んで、文字をまとめて、文字を飾って。馬鹿みたいだな。違うか。馬鹿なんだろうな。また逃げてる。でも、これしか出来ない。

 なんの為に生きているのかとかを最近考えている。食べものを捨てる僕らと、餓死する人々について考えて、みんなが少しずつ貧しくなって、みんなが平等になる世界を想像する。それは、生命への慈しみというよりは、将来への不満。今のこの娯楽に溢れた生活は不自然で、そう遠くなく終わりが来る気がずっとしてる。世界で作られる、映画の本数を半分に減らして、ゲーム機の台数を半分に減らして、書かれる小説を半分に減らして、作られるWEBサイトを半分に減らして、そのすべてで減らした化石燃料を温存して、余った労力を食料生産や環境維持活動に充てたら、人類の寿命はどのくらい伸びる。それとも、世界が少し不幸になるだけ?
 分からない。果てしない。考えても考えても、きっかけがつかめない。何も主張できない。人間の将来について何かを考えられるくらいの、哲学者はもういないの?科学が科学たりえるのは、大本の哲学があるから。でも、もう、哲学をするのに十分な科学者になりる事は不可能かな。みんな何を信じて生きているの?
 いま世界で、本気で死にたくないって思ってるやつどれだけいんの?死にたくないを最優先できる人間はどれくらいいんの。もう無理だろう。そんな感覚がずっとしてて、それでもそれでも酒飲んで酩酊してるみたいに人生を楽しむんだよな。
 生きてるだけじゃ意味がない。と思う人の数が、人類の滅びの触媒になる。

 夜中に何書いてるんだろう。まあ夜中だから書いてるんだろうけどさ。でもなんかすごく不安なんだよ。なんで仕事がなくなって大変。って言葉に違和感を感じないの。仕事がなくなったらラッキーじゃん。あんまり働かなくて良くなるんじゃん。この感覚って悪なのかな。
 美容整形は嫌いで、気に入らないからって顔を変える不合理を思ったりしていた。自分の生まれつきの顔が嫌いなら、変えるべきは顔じゃなくて心だろと思っていた。
 世界に対しても、そうなのかもしれない。世界が気に入らなけらば、変えるべきは世界じゃなくて自分なのかもしれない。いや、そうじゃないのかもしれない。

 人類は今まで想像以上に不幸だったのかもしれない。
 生まれても大人になれずに死ぬ確率も高く、飢饉が来れば大量に餓死して、夏は暑さで冬は寒さで人が死に、感染症が流行れば今の数倍死亡率が高かったはずだ。そう考えれば、快と不快のバランスは、今よりずっと不快の側に傾いていて、人が簡単に死ななくなったのはごくごく最近のことで、そりゃあこの世の春とばかりに楽しみまくるし、娯楽やサービスを作る事に躍起になるわな。
 今はじゃあ、一生懸命、みんなが、誰も不幸にならず、少しでも全体が幸福になれる方法を探している所なのかもしれない。幸福を増やす、も不幸を減らすも、どちらか片一方しか出来ない訳じゃないもんな。故人を偲びながら楽しく宴会出来るもんな。

 ちょっとすっきりした気がする。ここらで一回休憩入れるか。取り合えず、僕の人生の目的に「人類の不幸の削減と自己の幸福の増加」にが追加されたところで、休憩入りまーす。ラジオ聞きながら、部屋の掃除します。

 さて、少し部屋が片付いて、頭も冷やされました。よくよく考えたら一日で1万文字書くのは結構頑張ってますよね。ただ、このくらいのクオリティーでよければ、そして何書いてもいいやという想いがあれば全然不可能ではないですね。小説家の西尾維新先生は、速筆で有名で、一日で3万文字書くという事ですが、真に凄いのはそれだけ書くだけのシナリオを考えていける所かなと思います。どうやって書いているんでしょうね。はじめにプロットを作りこんであるのでしょうか。

 今日は、ここまで書いてみてなんだか、しょうもない事してるな、という気分になってきました。内容が薄い。Twitterで、その辺のブログと論文の違いは、「それってあなたの感想ですよね」と言われた時に、反論する根拠があるかどうかだ。という意見を見ました。それになぞらえて言うならば、僕のこの文章は、感想100%、論破され放題という事になります。今回の目的的にはそれでも良いんですけど、なんだか、手なりで書いているような気分がしてすごく情けない。そういう意味でもやはり、役に立つ文章から逃げているんでしょうね。

 何かを生み出したい、という気持ちが最近の人は強いという話をよく聞く。例にもれず僕もそうですね。という話なのだろう。何なら曲作りたいな、とかも思うもんね。最近は、論理だてて考えるという事がぐっと減って。疲れるからだ。そうやってとりあえず感情に任せて、感覚で行動して、それで案外何とかなってる。昔の自分よりきっとぐっと接しやすい。その代わり面白みも減っただろうなと嚙みしめている。
 そして、なんだか、情緒不安定性がました。文字を沢山書くようになったからだろうか。書くことで、自分の感情を観察し、刻一刻と情緒が変化していく事に気付いたからだろうか。というか、昔から情緒が不安定だったのを自覚しただけかもしれない。
 その変わりと言っては何だが、季節の変化、街の変化に敏感になった。具体的には、木の色の変化が目に付くようになり、温度の変化を肌で感じた。そうなる事で、世間話が少しうまくなった感はある。これはあからさまに成長だ。


 話題を変える。
 最近、アニメの平家物語、を見ている。まだ四話だが、雰囲気が好き。絵が柔らかい。今のところ、物語よりも、絵の感じであったりとかそんな所が気に入っている。

 というか、最近、本当に結構疲弊していたのかもしれない。本当になんかこう物語とか、そういったものを、あまりにも接種出来ていない。時間がなかったわけじゃないし、ネットフリックを開いたり、図書館で本を借りたり、少なくともその努力を欠いたりはしなかった。けれど、染み込んでこなかった。唯一、がっつり楽しめていた娯楽は音楽。あとまあラジオも聞いてたか。そう思うと、他に興味が移っただけともとれる。悩ましい所だ。
 一時期、アニメを見たり、小説を読んだりしたら、時々notoに書いていたりした。それは、凄く、結構、豊かな営みで続けていきたいと思っていた。けれど、やはり、そんなことをしても意味がないとささやく自分が消せないまま、気づいたらやめていた。
 僕は自分が好きだし、自分に魅力がないとは一切思わない。ただ、僕の魅力を作っているのは、今までに接種してきた物語や考え方たちで、外から何かを取り入れるのをやめてしまうと、たちまち枯れてしまうだろうとも思っている。読書や動画鑑賞を半ば義務のように言う事に、嫌悪感を憶える人ももしかしたらいるかもしれない。でも、ほとんどのサッカー少年は練習をしんどいと思っているだろうし、大人になったら良い思い出の文化祭だって面倒くさい準備もあっただろう。楽しい事が、いつでも、はじめから楽しい顔をしているとは限らない、何ならほとんどはしんどく、その中に、まれに楽しさが混ざっているのかもしれない。いつも娯楽に一生懸命。

 本当に書くことなくなってきたな。どうしよう。でもここからが、この企画の本番なんだよな、という感じもする。何の話をしようか。こうやって書いているうちに、準備運動と本番の境目があいまいになって、いつの間にか大切な事を書いている、みたいな事を「ライティングの哲学」で千葉雅也先生が言っていた気がする。そうなのだろうか。いつものインスタなら、思いついた事をそのまま、例えば春の七草を急に並べてみたりとか、書いたりしてる。この瞬間に春の七草を思う意味を、普通は理解できないし考えないけれど、書いてみて、誰かが読んでみる事で意味が見つかるかもしれない。それが人間のありかだと僕は思う。
 エコロジカルセルフ。この話も何度もしていて、それだけ、僕の中で印象深い考え方なのだろう。社会学とか心理学だかの考え方で、「私」は人と人の間に発生する。みたいな話だったと思う。これもちゃんと勉強しようかな。とにかくそんな考え方があって、その考え方を知っている事で今まで、人と接していく中で、結構救われた思いになる事が何度かあった。
 人は学び続けなければ生きていけない。これが真実だとすればそれだけで、「なんで勉強しないといけないんですか」には答えられる。生きていくためだ。
 ではなぜ人は、学び続けなければ生きたいけないのか。それは人間が環境を変える事で生き残ってきたからだろう。そして、人間の環境への働きかけの集積である文化と言う奴は、それ自体が生きているように、自己複製しながら変化する。人間の遺伝子は、基本的に親から子供へ受け継がれる瞬間にしか変化のチャンスがない。しかし、変化す続ける環境と文化の中で僕たちはどうにか生き残りたい。じゃあどうするか。後付けで自分を変え続けるしか無かろう。
 つまり、学習とは自己を変化させていく事に他ならない。しかも、生き残る事が出来る方向に。でもどうすれば生き残れるかなんてわからない。だからそれぞれが自分の信じた方法で自己を変革し続けている。
 わけわからなくなりそうだからまとめに入る。人は学ぶ、あるいは変化し続けなければ生きていけない。しかも、どう変わっても良いわけじゃなくて、今の環境と文化に適応するように変わらなくちゃいけない。だから多分、変化の仕方の答えを見つけるのは大変。だから、いろんな人がいて色んな考え方の人がいる。みんながそれぞれの答えを探して変化し続けてる途中だから。
 ただし、生き残る事は別に目的や目標じゃない。生き残るやつが生き残るだけ。だからなんも心配せずにやりたいようにやればいい。嫌なことを嫌だと感じ、好きな事を好きだと感じ、それで死ぬなら仕方がない。

 過去や未来にとらわれて、今を生きられない事は辛いのかもしれない。

 愛する人に愛されたくて、愛されなくてやがて憎むことはしたくない。
愛されたくても、愛されないのは、自分の責任で、それはもう仕方がない。ただ愛してさえいればいい。

 力を抜いて。一つずつで良い。出来る事があるはず。

 苦しまない。

 これだけ、いろいろ書いてきたのに、疲れたという感覚があまりない。
 なんか変だな、とは思うけれど確かに、何かを作り上げたなという印象がまるでないのだ。もしかして、ただただ、数時間、パソコンの前に座って指を動かしていただけなのだろうか。頭を使えていなかったのだろうか。そんなことはないはずだと、焦りながら、1万文字までの文字数をどんどんどんどん消費する。最後に何か身になるものが欲しいと願いつつも、勝手に勝手に指が動く。
 たくさん書いていて楽しい、の時期は終わったのかもしれない。そう考えればこの文章には、責任も、目的も、緊張感も、期待も、焦りも、喜びも、苦しみも、愛しさも、切なさも、怒りも、妬みも、何もなかった。
 そうだ、あの子に、手紙を書こう。

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