同窓会@ひろしまへ行こう【1日目】

伊予鉄の珍運用を見る

1日目は起きてからすぐ、ホテルの中にある大浴場に入った。『奈良~平安時代の道後温泉にあった蒸し風呂を再現しました』と言われれば納得できるほど湿気が多い。なんなら近所の銭湯のスチームサウナより湿度が高かったかもしれない。自分が茹だってしまうのではと思ったくらいだ。

風呂から帰り身支度をし、昨晩カレーを1杯しか食べていなかった私は空いた腹を抱えて朝食バイキング会場へと参じた。
松山あげの入った、おいしい味噌汁とともに、種々のおかずを頂いた。高知の実家でも思うのだが、この辺の味噌は白味噌の割合が多い気がする。

蒸し風呂に入らされてどんな朝食を食べさせられるのかヒヤヒヤしていたが、こちらはなかなか良い朝食だった。

食事を終えると電車の時間も差し迫っていたのでチェックアウトの後、昨日帰ってきた道を戻って古町駅を目指す。
今日はまず古町駅から松山観光港を目指し、そこからスーパージェットで呉、呉近辺を観光し広島市内へ向かうこととなっている。

古町駅の手前では面白いものを見た。
古町とJR松山駅前の間は路面電車でありながら単線区間になっているのだが、連続してJR松山駅へ向かう同じ向きの電車が入っていくのだ。
普通の鉄道では一閉塞一列車の原則があるからこのようなことはしてはならないのだが、路面電車は閉塞という概念がなく、原則目視に基づいた運転をする。対向列車とお見合いにならない限り、このような運転が許されるのだろう。このような運転扱いは初めて知った。


続行運転をする路面電車

伊予鉄の高浜線は車掌も乗務している本格的な地方私鉄で、流石四国の首都・松山の私鉄と言えよう。沿線の開発具合も申し分なく、途中駅での乗降もそれなりにあった。海が見えて、少し乗ったかな、くらいで電車は高浜に到着、味のある駅舎の写真でも取ろうかと思ったら、連絡バスの時間まであまりないようで、急かされるようにバスにのることとなった。


伊予鉄高浜線

連絡バスはものの三分ほどで松山観光港へ到着、バス代は180円するから、この距離なら高浜駅をゆっくり見た後に潮風に当たりながら歩いたほうが良かったなどと思いつつ、松山観光港のターミナルへと入る。
うっかりスーパージェットが満席だったりするといけないと思い、1時間前ほどに到着したのだが、難なく乗船券は発券され、どうも全くの杞憂だったようだ。小一時間ほど小さな空港のようなターミナルで暇をする羽目になってしまった。
土産物屋を3度ほど見学し、観光パンフレットをくまなく確認し、先に出発するフェリーの出航光景などを眺めていると、ようやく10分前の乗船開始時間になった。

スーパージェット

スーパージェットで瀬戸内海を縦断

スーパージェットの船内は国内線の中型機を半分に切ったような広さになっている。上にはグリーン車相当の座席があるそうだが、広島まで乗るわけでもないし、私一人であるから乗らないことにした。カップルでの旅行とかであれば、落ち着いた雰囲気でいいかもしれない。

スーパージェットはそこそこの勢いで松山観光港を出航、そこからは瀬戸内海を一路呉へとかっ飛ばす。
かっ飛ばすと行っても瀬戸内海の離島航路にありがちな船首が上に上がっていることをひしひしと感じながら乗る高速艇とは違う。ときおり波の影響で揺れることこそあれど、ゆったりと走るバスのような乗り心地でさしたる不快感もない。さすが大型の双胴船だ。
私は後ろの売店で買った坊ちゃん団子とドリップコーヒを楽しみながら行き交う船を横目に読書、少しスピードが落ちてきたなと思ったら本州が近づいていて、「今から音戸の瀬戸を通過しますので減速します」との放送が入った。


音戸の瀬戸

なにかの鉄道雑誌で読んで、音戸の瀬戸には「橋が2つかかっている」という知識はあったのだが、こんなに狭い海峡だとは知らなかった。確かにスピードを落とさないと他の船をひっくり返してしまいそうな、知らない人がここだけ見ると川と勘違いしてしまうようなところだ。音戸の瀬戸をくぐると呉の大きな製鉄所が横目に認められて、自衛艦がいくつか泊まっている横を通過すると、呉港に到着した。

海防の街・呉を歩く

呉に着くとまず大和ミュージアムに向かう。ここからいわゆるミリタリー的な要素が多分に含まれるが、私は車輪が2輪以下の乗り物と旅客や乗員を輸送することを目的としない乗り物に明るくないので、いまいち理解の及ばないところもあり勉強不足の感が否めなかった。


しかし、呉という町が計画都市であることは意外だった。てっきり鞆の浦のような港として近世から使われていたのだろうと思っていたのだが、今のような町並みになったのは全くして海軍のおかげらしく、それまでは大きな町があったわけではないそうだ。

また、この展示館では大戦末期の特攻で知られる人間魚雷「回天」の展示もされている。実物は思ったより小さく、『大和』型のようなあれだけ大きな船を作れた国が小さな非人道的兵器に頼らざるを得なくなるというのはなんとも虚しいものであるし、アジア太平洋戦争がいかにずさんな計画だったのかと伺えるところもある。
一方でこのような兵器は青年将校の志願によって生まれているという側面もあり、現場レベルでの『国を護る』という意志の強さを感じ得るところもある。
一面的に非人道性を取り上げるわけにも行かず、なんとも複雑な兵器であるのだなと、この後行った江田島の海軍兵学校の見学とも通じて思ったのであった。

他には造船技術にまつわる展示なども行われており、海事全般について取り上げられている施設となっている。すくなくとも大和の建造は戦後日本の造船産業には少なからず役立っているらしく、昭和時代の造船大国日本を支える礎となっていたらしい。

個人的には市立の建物で帝国海軍史を扱っているにも関わらずいわゆる平和資料館的要素が薄くて少しびっくりしたところもあるが、大和を主眼においていることから、勝手にそのイメージから帝国海軍の栄光! のようなイメージを勝手に受け取ってしまったのかなと思わないこともなく、ちょっとひねくれた見方をしてしまったかな、と帰ってから自省するところもあった。
(平和資料館に収蔵されていることが多い特攻隊員などの手記は江田島の教育館が詳しいから、そちらに収蔵されているという都合もあるのかもしれない)

この後は本物の「提督の家」を見に行こうと山を登って入船山記念館へ向かう。道中には海上自衛隊の教育施設があるようで、広いグラウンドの隅の守衛所には青い迷彩服の自衛官が立っている。普段京阪間で生活していると見ない光景だ。今でも呉は「海防」の町なのだ。


入船山記念館の長官庁舎

入船山記念館は呉に着任した司令長官の案内や、長官庁舎が残されている。
長官庁舎は程よく品のいい、豪華すぎでもなく、質素すぎでもない誂えの建物であった。写真にしても映えるような施設で、ぜひとも呉でスナップをするなら山登りの面倒をおしてでも来る価値はある施設であろう。


内装は大変丁寧に作られている

その後は呉駅構内の寿司屋で提督を疑われながら食事をし(ちなみに私は艦これはやったことがない)時間が余ったので「鉄のくじら館」にも行くこととした。

てつのくじら館

「てつのくじら館」は海上自衛隊の資料館で、無料で入ることができる。館内はまず瀬戸内海の掃海について取り上げた展示がある。

私も大人になるまで知らなかったのだが、前に門司港に行ったときに「関門海峡は戦時中機雷封鎖がなされており、おちおち航行できるような状態ではなかった」という展示を見たときに、初めて『内海でも機雷封鎖があった』ということを知った。その機雷を撤去する掃海作業には自衛隊が参加しているので、その展示がここにある。

ここでは瀬戸内海各地に巻かれた機雷の処理にどのような技術が用いられ、またその後中東での海外協力にて実施した機雷処理の様子などが展示されており、知られざる日本史について学ぶことができる施設である。

また「てつのくじら館」という名の通り、潜水艦に関する展示もある。外には大きな潜水艦が展示されており、その中にも入ることができるようになっている。
潜水艦の中は当然狭く、しかも入れるのはいわゆる士官と呼ばれる人が居住するエリアなので、下士官はどんな部屋になっているのだろうと思いを馳せながら、潜望鏡を眺めたり、メーカの銘板入りの種々の装置を「見ていいのかしらん」と思いながら目に収めた。なお、撮影は当然のことながら禁止であった。

そこからは呉港へ戻り、港でぼーっとしていると友人のT君が来た。ここからは彼と2人行動で、江田島を目指すこととなる。江田島にある海上自衛隊第一術科学校、古くは海軍兵学校であった建物を見学に行こうと前々から申し込んでいたのであった。

T君は近代の建築に大変詳しく、その興味から、私は内田百閒先生の随筆で江田島に行った話があったので、一回どんなところか見てみたいと思って見学することになっている。双方ともにいわゆるミリタリーにはあまり興味が無いのは秘密である。

申込みにあたっては電話予約、メールでの申請書記入などが必要で、地味に骨が折れた。まあ、人生において海上自衛隊にメールを送付することなどはないだろうから、ちょうどいい機会と思っておくことにした。

江田島・海軍兵学校を訪れる

江田島ゆきの高速艇

江田島へは高速艇で渡る。ほんの10分ほどの船旅だ。

私の好きな内田百閒先生の随筆で江田島の兵学校へ行く話があるのだが、そのときも先生はモーターボートにお乗りになったいうことだから、ちょうど似たような乗り物でよい。ただし、先生は兵学校に直接乗り付けることが出来たのだが、我々は小用港という第一術科学校から小さな山一つ隔てたところに降ろされた。
途中では例のスーパージェットが船の前を横切り、大きな波を立てて私達の船を揺らしていっていた。

小用港着から見学時間まで1時間ほどある。小用港から第一術科学校までは徒歩20分ほどらしい。バスはちょうどいい時間になく、タクシーも港には居ない。仕方がないし、歩けばタダなので徒歩でいくことにした。

この小用の町、少なくとも港以外には商店すら認められず、少しさみしい思いをしながら15分ほど坂を登り、セブンイレブンが見えたと思うとそこがてっぺんで、また10分ほど坂を降りると第一術科学校にたどり着いた。
この途中、下宿屋の電柱看板が目立つのが印象的であった。てっきり学校に入っていらっしゃる皆さんは寮生活なのかと思ったのだが、ある程度の階級の自衛官であれば時分で部屋の用意の必要があるのだろうか。私はアパートに一人暮らしをする大学生のことを便宜的に『下宿生』というくらいにしか『下宿』という言葉を使ったことがなかったから、ちょっと新鮮な看板群であった。

少し早く着いたので、術科学校のバス停の前にある観光案内所で少し暇をつぶした後、門の守衛室に向かう。ここでも青い迷彩服の自衛官さんが応対してくれ、予約を確認、身分証を提示しスムーズに入構することが出来た。入構する際、『江田島ハウス』という建物に向かい、そこで待機するよう言われた。

この術科学校の見学はコース中に教育参考館という帝国海軍のあゆみや戦時中になくなった軍人さんの資料を集めた施設に立ち寄ることになっている。その関係で『成人男性の短パンは禁止』『キャミソールは肩が隠れるように』とイスラームのモスク見学時並みに注意点が多く、私もビクビクしながら構内に入ったのだが、中に入れば比較的ウェルカムな雰囲気で、安心した。

旧海軍兵学校大講堂


内部は現代でも使用されている

非常に声の通る初老の案内人さんの先導で、まず講堂を見学する。今でも式典で利用されているらしく、非常に音の響く、立派な空間であった。百間先生が随筆『フロツクコート』で『丸でお伽噺の国の殿堂のやう』と表現した建物はおそらくこれのことかと思う。
案内人の方は講堂から出るときに「段差に躓いてカメラなど壊されないように』としきりに注意をされていた。百閒先生はこの建物の玄関にある段差に躓き転けてしまったそうだが、どうも現代の見学者も時折すっ転んでいるようだ。
ひょっとすると、海軍関係者からすると『大講堂あるある』なのかもしれない。

それにしてもこの案内人さんの案内は凄みがあったものだ。歴代の帝国海軍軍人が兵学校何期かスラスラと注釈をつけた上で解説を行ってくれている。帝国海軍史を研究していれば当然の技能なのだろうが、これには舌を巻かされた。基本的に海軍の有名な軍人さんは兵学校を出ているので、いろいろなエピソードがあるようだ。

当然施設について聞いた話も色々とある。例えば私達が入ってきた陸側の門から入るのは一般的な入り方ではなく、例えば来賓が来た場合などはグラウンドの向こうの海から船で出入りするのが一般的だったらしい。江田島に橋がかかるのは戦後のことだから、たしかにそちらのほうが合理的だ。
そういえば、先述の随筆で百間先生もモータボートから突然兵学校敷地に降ろされ、どこが受付かわからず迷った話があったのを思い出す。てっきりモーターボートの船頭が降ろす場所を間違えたのだと私は読み取っていたが、どうも正しい対応だったのだろう。


旧海軍兵学校 生徒館

次に幹部候補生学校庁舎、旧生徒館を見学する。中は使っているので入れないのだが、こらちも堂々とした秀麗さを備えた建物である。この施設内にある建物全般に言えるのだが、程よくゴテゴテとせず、かと言って田舎の合同庁舎にありがちな質素すぎるつくりというわけでもない、『程良さ』は見事なものである。講堂とこの庁舎の配置のバランスもよく、広い敷地を有効に使っているのだなと感心させられる。

次にグラウンドから『陸奥』の主砲を案内していただいた後、教育参考館を見学する。こちらは撮影禁止であったので、

こちらは帝国海軍の成立から日清・日露の両戦争、そしてワシントン海軍軍縮条約締結などの戦間期に活躍した海軍軍人の功績について取り上げるとともに、大東亜戦争(館内展示がこの表現だったのであえて合わせておく)においての出来事や亡くられた軍人さんや特攻隊員の手紙などが取り上げられている。
正直戦間期までの功績だけでも相当に長く、20分ほどの見学時間では到底見きれない分量の展示であった。建物の内部も入り口には東京の国立博物館を思わせるような立派な階段が誂われており、内部も大伽藍を連想させるような荘厳な作りになっている。

特攻に向かわれた青年の手記のコーナーで、相手の健康を気遣って「それではお元気で」で終わっている故人の手紙ほど悲しいものはないな、と感じ入っていると、ちょうど見学時間が終わってしまった。

建物を出るとその横にある真珠湾攻撃で使われた特殊潜航艇の説明を受けた後、来た道を戻って解散となった。売店でカレーをしきりに宣伝していたので、それを土産に買い、バス乗り場へと戻った。

この旧海軍兵学校、少なくとも建物だけでも見る価値は大いにあるし、日本の海防史におけるいろいろな出来事や、現在の海上自衛隊が旧帝国海軍をどのようにとらえているのかという観点からも興味深く学ぶことができる施設であった。日本近代史に少なからず興味があればぜひともおすすめできるスポットであろう。

バスに乗って小用港に戻り、今度は広島港行の高速艇で帰る。広島港は広島駅から路面電車で30分ほどの宇品というところにあり、そこから路面電車に乗って広島駅へ向かう。程よい夕方の混雑を見せる広電に乗って広島駅へ到着、今度は別に先入りしていた友人Aとも合流、飲みに行くこととする。


八丁堀の夜

どうも広島の飲み屋街は八丁堀というところにあるらしい。路面電車をそこまで乗って、近辺をふらつき、居酒屋めぐりが趣味の嗅覚を生かして入ったろばた焼き店に入る。
店は品が出てくるのこそ遅かったのだが、刺し身、揚げ物、焼き物すべてにおいて美味しくびっくりした。お客さんもひっきりなしに入れ替わっており、どうも地元の方に大変人気のお店のようだった。

店を出るとピンクなお店と居酒屋入り交じるなんともいえない街並みをぶらつく。関西に住んでいるとこの手の店があるエリアと居酒屋があるエリアは分かれていることが多いので、すこし勝手が違ってどきまぎさせられた。またアーケードのように酒のネオンがあるのは広島の盛り場の特徴で、これは飲み屋街の活気によいアクセントを与えていた。

もう何かを食べるのはいいかな、でも少し飲みたいということになったから、Google Mapで調べると出てきたアイリッシュパブへと入る。

といっても、つまむものがないのは困るから、お酒とは別にちょっとしたピザのようなものとアヒージョくらい頼もう、と注文をした。
すると、ファミレスでもこんなに大きな料理は出てこないぞという品が二品出てきた。これにはびっくりさせられ、少食の友人二人は恐れおののいていたが、普通に楽しく会話をしながら食べきることが出来た。

最近皆さん酒量が減ったり食事の量が減ったりしているそうだが、私はその雰囲気がない。強いて言うなら二日酔いをしやすくなったなという感覚があるくらいのもので、果たしてこのまま飲み食いしていて私の健康は損なわれないのか心配ではある。

アイリッシュパブでギネスやらハイボールやらを飲んだ我々は各々の宿へ戻った。面白いことに3人全員が別々の東横インに宿泊しているという状態で、同窓会なのに宿は完全別行動なのだ。


宿の近くで食べたラーメン

私は少し食べたりなかったので、宿の近くのラーメン屋に入り、おでんとビール、ラーメンを食べた。ラーメン屋におでんがあるのはめずらしいが、このおでんの出しも不思議で、どうもラーメンのスープをつかっておでんを茹でているように思える。味噌おでんと醤油おでんの間のような食べ物で、これは新鮮だった。
ラーメンもだいぶ甘口で、徳島ラーメンをさらに甘くしたような味わいで他には見られないようなもので、面白いものを食べることが出来た。

この日はそのまま宿でシャワーを浴びて、そうそうに就寝した。




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