コントロール外れて出てきちゃった本音

タイトルをつけるのがめんどくさいくらいに散らかった話

おはようございます。ギタリスト、ハヤエモニスト、最近ではairchさんをバックアップしようと腹をくくり初めた北島健吾です。

まずは、今日書こうと思ったこと。『強さとはなんだろう。』これについて、肉体と精神にわけて書いてみます。

肉体

正直なところを言えば、
自分はまったくもって思うように動けていない人間です。

自覚がある人っていますかねぇ?
自分が生きているなかで、自分のコントロールを外れている部分。

例えば、「歩け!」と思ったら歩ける人多いじゃないですか。

でも、思い通りに歩けって言われたらどうしたらいいかわからない。

癖の話

よく靴底を見ると僕は外側がすごくすり減っているんですね。
どの靴を見ても、普通に歩いているつもりなのに外側がすり減っている。
人間の二足歩行、それすらもどういう癖があるのか把握できているのに直せていない。
そう思います。
これ直した方がいいのかな?と思うけど、
次の日には忘れるんですよね。それくらい直さなくても一日レベルではどうってことなく生きられる癖。時間とともに摩耗してしまう癖。

隣に並走して、「右!左!そこ5度くらい内側に!」
とか指導してくる人いたら変わるかもだけど、そんなコーチングされたくはないですね。
生きるのが辛くなる。

変化に伴う精神のストレス

目をつぶって階段を降りるのが怖いように、
自分がコントロールできないものってほとんど覚悟の領域だと思うんですよね。
だいたい何か新しい物事を始める時って、足場がないことが多い。
それでいて、歩いたそばから退路が断ち切られるというか、
マリオとかロックマンみたいな感覚で言えば、落ちる足場みたいなものに追いかけられている。

先も見えていないのに、なんでも思うように動けるわけがないじゃないか。

自分の思うように自分が一日過ごせたらそれだけで、大満足だと思うんですよ。
朝、6時におきたくて目覚ましに起こされずに自分で目覚ましを止めた時。
『勝った』ってよろこべばいい。
そう思うんですね。

自分をコントロールするのが難しいのに、環境をコントロールするなんておこがましい

感情との付き合い方

何か目標立ち上げて、
『現在地Aからゴール地点Fにいくまでには、B、C、D、Eを通ります』みたいな。
こういう考え方って人を殺しかねないんですよね。
感情を遮断しないと論理だけじゃ結びつけることができないんですよね。
感情を遮断したら人間じゃないと思ってます。

『現在地Aからゴール地点Fにいくまでには、B、C、D、Eを通ります』
ではなくて、

『現在地Aからゴール地点Fにいくまでに通る、B、C、D、E全ての地点で自分の感情は満足しています』のパターン

あるいは、
『現在地Aからゴール地点Fにいくまでには、B、C、D、Eを通りますが、Fに辿りついた時僕はどんな人たちと笑顔で過ごせているだろうか』のパターン

これらじゃないと、どうもやっててサジ投げたくなる。

ただ、関わる人それぞれにそれぞれの『慣性の法則』がありますし、
それぞれの『感性』もあります。

みんな幸せになったらいいな、なんていいながらも
見えていない出あっていない『みんな』の方がよっぽど多いわけで。

結局のところ、手に届く範囲で小さな幸せを大事にする気持ちが大事だと思います。
その辺りは正直にしていかないとね。で、あとあと手に届く範囲が増えればいい。

この順番。


おいおい、『当たり前』とかいうなよ。

子供のころ。こういう経験した方多いと思うんですよ。
わからないことを見つけて、「なんで?」「これは何?」と聞くと、
当たり前なことを聞くなよと。

「そんな当たり前のことをわざと聞いて、大人の気を引こうとしてるだけでしょー。わざとらしいのはダメだよ」と姉に言われました。

いつもそう言われるので、
わからないことは聞いちゃいけないものなんだなと思って育ちましたね。
こればかりは、人のせいにしていきます!
子供の頃の知的好奇心の妨害は「質問するな」っていうこの一言による部分が大きい。
調べるのはめんどくさい。でも導入部分で面白ければ調べるかもしれない
その興味を、当たり前なことを聞くなよと。笑
もちろん辞書やネットで調べるっていう力はついたかもしれませんが、
それ以前の問題で、カジュアルに聞くってことができない環境でしたね。そう思い込みました。
子供の頃に根付いた価値観は今も変わりません。
「これってどういう意味ですか?、、、いやいや、当たり前すぎて聞くの恥ずかしいかもしれないから一旦しらべようかな」みたいな。
で、結局調べて解決しちゃうとコミュニケーションの機会も失うし、自分だけで完結すると自分側の側面でしか理解が進まない。結局井の中の蛙なんです。

なんだかんだで、人に聞いた方がいいんですよ。

聞くことで、周りの人の得意分野を知れるかもしれないし。

前にも書いたかな?
僕は、ベースもソフト音源を買って、ドラムも音源を買ったんですよ。
でも、打ち込みがうまくなることによる満足って自分の中で終わってしまうんですよね。
作品を聞く人は出来上がったものが良ければ手段はどうだっていい。それなのに自分の殻にこもって腐らせてる。
だったら、得意な人巻き込んだ方が面白いじゃないですか。
取り分とかいろんなこと考えたらめんどくさくなってつまんないのかもしれないですけど。
そしたら、その人ができないことを手伝ったらいい。
根本的にはそれをストレスなくやりたいと思える人が好きですね。
お金もらえないとやりたくない、っていうような環境にいると自発的貢献力が失われて当事者意識がなくなるんです。お金もらえないと動けない。ギャラくれるの?くれないならやらない!これじゃぁ自発じゃなくて依存ですよ。
お金じゃなくて、「お前の喜ぶ顔が見たいんや!今度一緒に飯食いに行こうな!?」
っていうところね。そういう楽しみたさを大事にしたい。
そもそも、利害が一致しないなら、お金もらっても利害一致しないと思っています。
利害が一致しない人からのお金、利害が一致しない人への貢献で美味い飯が食えません。
またこの仕事なの?って出社前にお腹下しませんかね?

気持ちの前向き度が一番大事。
それって、お金で縛りつけることできないですから。
自分から湧き出るものは止めることはできないし、得たものは失敗も成功も全て財産として残ります。

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