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伯母と歌

聞けば、伯母は昔はたいそう歌の上手い人であったそうだ。
どこかでお抱え歌手のような事をして、稼いでいた時期もあったと言う。
今では喉の引きつった傷が、それはもう叶わない事と語っていた。

で、あるにも関わらず。 伯母はよく歌っている。
よく見かけるのは夕焼けの綺麗な日や朝焼けの綺麗な日、雪のきらめく日や、要するに伯母の気に入った空模様の日の庭だった。
初めて見た時には、何を口をぱくぱくさせているのだろうと不審に思った。 いくら声を出そうとしても声帯が無いのだ。声が出る訳は無いし、そんな事は伯母が誰よりも知っている。
体調でも悪いのではあるまいかと、おれが慌てて庭に降りようとした時だった。

びゅうううぅぅぅぅうううおおおおおぉぉぁぁ…

突風と呼ぶには余りに楽しげな風の塊が、庭から空へ駆け上がるように吹き抜けていった。
あまりの事にとっさに目を庇う事しかできなかったおれの髪や服はひどい有様だ。
風に巻き上げられて、ゆらゆらと落ちてくる葉っぱや草を呆然と頭や肩で受け止めて、見開いたままの目を庭にいるはずの伯母に向けた。
伯母は目をちょっと見開いておれを見たが、すぐに楽しげな目になり、そのまままだ呆気にとられているおれの横を、軽やかな足取りで通り過ぎ、家の中へ戻っていったのだった。

その時は何がなんだか分からなかったが、何度か突風に髪をめちゃくちゃにされ、霧のような小雨に全身をずぶぬれにされ、綿のような雪に凍える目に遭わされて気づいた。

これは伯母の歌なのだ。

声帯という器官を失くしてもなお、歌に愛されていた伯母は声帯で歌う事を捨て、全く違う『声』で歌う事を選んだのだ。
誰に聞かせる事が無くても、誰かの拍手を受ける事が無くても、大勢の人々の称賛を受ける事が無くても。
伯母は、自分の『声』で、自由に高らかに、歌う事を選んだのだ。

今日も伯母は庭に降りていった。
鮮やかなとりどりの赤を纏った入道雲がそびえている。
きっと間もなく夕立が降り出すだろう。美しい真夏の虹を添えて。
縁側から遠く雷鳴を聞きながら、まるで開幕のベルのようだ、と思った。
心の中で拍手を送る。
これから始まる、美しい歌のために。

#小説 #ショートショート #第1回noteSSF

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