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手紙

郵便受けのかすかな音に、身支度を整える手を止める。
そわりと心臓を撫でる予感に郵便受けを開けてみれば、ふくよかな封筒が郵便受けの中で微笑んでいた。

そっと手に取ったその封筒は、いつものように仄かに見知らぬ土地の香りを纏っている。
差出人は、彼女だ。
私は整えようとしていた髪もそのままに、ハサミで慎重に封筒の端を切る。封筒から写真の束を取り出すと、異国の香りはますます強くなった。
埃っぽいような、スパイシーなような、太陽と熱い風のような。
その香りを深く肺に収め、私は厚く重なった写真の一枚目に視線を落とす。

彼女が海外に行ってどれぐらい経ったのだろう。
3年を超えた事は確かだが、だいぶ頻繁なメールやSkypeでのやり取りや、こうして送られてくる、古いポラロイドカメラで取った幾枚ものメッセージ付きの写真を受け取っていると、まるで最後に会ったのが昨日であったかのように錯覚してしまう。

写真に写る彼女の姿は、昔とさっぱり変わらない。
真っ直ぐな眼差しも、豊かな表情も、そして、どこか遠いところを恋しく思うような横顔も。
現地で知り合った人にシャッターを切ってもらうのだろう。彼女自身の写る写真はそれほど多くはない。しかし、知らない風景の中に居ても彼女は彼女のままで、そんな彼女の写真を見るのが、私はとても好きだった。

ポラロイドの独特な写りは、まるで私まで一緒に旅をしているような気持ちにさせてくれる。私が好きそうな風景の写真も彼女は毎回送ってくれていて、場所やそこであったこと、美味しかったものやその時思いついたのであろうさっぱり関係のないようなことまで、長かったり短かったりする文章で好き勝手に綴られていた。
まるでその場所で彼女と会話をしているようだ。
だから私はいつも、このとりとめもない手紙を見ながら、小さく相づちをうって楽しむ。手の内から漂う香りが、手紙と写真と混ざりあって、ここではないどこかへ、彼女の近くへ、私を誘ってくれるから。

平凡な生き方しかできない私にとって、彼女からの手紙は大いなる冒険だった。彼女を通して、私は世界を見ていた。
いつも見上げるあの空が、彼女の見たあの空とつながっているのだと思うと、平凡な日常がふと隠し扉を開いて、日常のすぐ後ろの非日常を垣間見せてくれるのだ。

写真の束が薄くなる寂寥感をじわじわ感じ始めた頃、私は最後の数枚が、ポラロイドカメラで撮られたものでないことに気がついた。
ずいぶんいいカメラで撮られたものだろうと分かる、それは息を呑むような美しさの夕暮れの写真だった。

鮮やかなオレンジ色で塗りつぶされた世界。
空に青は微塵もなく、痛いほどの金と赤、そして僅かな藍色。

見張った目から、雫が落ちる。
ハッと我に返って、写真に落ちたそれを慌てて拭った。
美しい写真の下の方。
おそらく酒の入っているであろうジョッキを持った彼女の手。
そして一言。

『ここに君がいればいいのに』

きっと油性ペンではなかったのだろう。文字が少し、霞んで滲んだ。

もう終わっていた化粧をしっかり直してみても、目元の赤みは消えなかった。目も充血しているし、これはもう仕方がないと思うことにする。
身支度をもう一度確認して封筒を丁寧にバッグに収め、それを持って家を出る。車に乗り込んで、また少しだけ泣いた。

彼女の葬儀の日の事だった。

#小説 #ショートショート #第1回noteSSF

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