数学は「ある」のか「つくられる」のか〜人文科学の意義〜

科学のあり方について、ここ数日話題になっていますね。そこで今回は、数学の個別のテーマではなく、科学、特に人文科学について私見を述べてみたいと思います。

人文科学といっても幅広いですが、文学、歴史、思想あたりが有名ですかね。人文科学の他には、法学や経済学といった社会科学、物理学や化学などの自然科学があります。この中で見ると、社会科学は「社会に役立つルールや仕組みを生み出す」、自然科学は「新しい技術で暮らしを豊かにする」というふうに、分かりやすい「役に立つ」がある一方、人文科学は少し違うのかもしれません。シェイクスピアを読めなくても当座の暮らしに困りませんし、徳川幕府の将軍を1人も知らなくても生きていくことはできるでしょう。(社会生活上は、知らないとマズいものはあると思いますけどね。)

しかし、だからといって人文科学の価値が低いのかと言われれば、そんなことはないと思います。私は、人文科学を「人間の、人間たる根拠に迫る学問」だと考えています。例えば、私たちがリンゴを持つ手を放すと、リンゴは重力に従って落ちていきます。これは、猿にやらせても同じように落ちていきます。パンダでも同じです。人間が存在しようがしまいが、地球には重力があり、重力加速度に従ってモノは落下するわけですね。ところが、源氏物語はどうやっても「人間」を無視して考えることができません。人間が何を見聞きし、感じて、したためるのか、これは人間であればこそなし得る業で、どんなに感度のよいカメラとスピーカーを用意して、どんなに精巧なフォントとプリンターを使ったところでかないません。「働けど働けど…じっと手を見る」という啄木はどんな気持ちだったのか、「クラムボン」は賢治の中でどのような存在なのか、これも、人間ありきの問いです。人間以外のどの生命体でもなく、かといって機械でもない、そんな「人間」という宙ぶらりんなわたしたちの存在を考える術は、他ならぬ人文科学にあるのではないでしょうか。

え、それが数学エッセイになぜ関係あるのか、ですか?
それは「数学するのは人間だから」です。自然の摂理は人間不在でも成り立ちますが、そこに「三角関数」とか「微分法」とか、さらには「lim」などという道具を生み出し、利用しているのは他ならぬ人間です。私たち現代人は、先人の作った道具(土俵と言ってもいいかもしれません)の上に数学しているのであって、人間なくして数学はありません。客体は、人間の手によってはじめて数学となるのです。そうである以上、自然科学をやる上でも、われわれ人間自身にスポットを当て続けることは必要であり、その道具としての人文科学というものは、もっともっと大切にされてよいのではないか、このように考えています。

ついでに話しておくと、私自身は高校では文系でした。大学で経済学をやり、気がついたら数学の講師をしていたというオチです(笑)

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