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任天堂を作った男の話①

初めて任天堂製品を手にしたのは、小学生の頃「ゲームボーイカラー」でした。
ポケモンゲットだぜとよく言ってました。
あと、プラスチックのトランプに謎の憧れがあって手に入れたのが任天堂の製品でした。任天堂のトランプ10年くらい持ちました。
日本人のほとんどは任天堂に関わっていると思います。

ここで任天堂のIR情報
【2020年4月1日~2021年3月31日】
売上は約1兆7590億円、営業利益率は約36%です。
売上に関しては、コロナにてゲームが流行ったのもあり、前年より4500億円ほど上昇しています。

営業利益率は10%を目標にしている企業が多い中、30%超え。

バケモノです。

世界中で愛されている任天堂ですが、現在の一流企業に至るまでの道のりには男たちのドラマがありました。
そのドラマを一緒に見ていきましょう。

・任天堂の沿革
・人との出会いの意味
について理解が深まります。

1889年、山内房次郎氏が花札屋として任天堂を創業しました。
任天堂は日本で初となるトランプ製造に成功しました。
そして、2代目の山内関涼氏へ継ぎ、トランプ・花札の製造販売をしていたのですが、病に倒れてしまい息子である山内溥さんに3代目を任せることになります。
当時22才、大学2年生の溥さんは大学を中退し、実家へ戻り3代目を引き受けます。
ここから溥さんの努力で任天堂の大変革が起こります。

1949年、山内溥氏が3代目を継承。
1953年、山内さんは「トランプ」の事業発展のため、プラスチックのトランプ製造を開始。
1959年、ディズニー社へ直談判しディズニーキャラクターの使用許可を得てディズニートランプを製造。これが大ヒットし5倍の生産量を記録、日本中に任天堂の名前が轟くようになります。

トランプで成功を収めた山内さん。海外のトランプ会社はどんなものかと
アメリカ最大級のトランプメーカー、プレイングカード社の工場を見た感想は、

しょぼい、世界トップでこの程度か

山内さん、デカすぎるよ。

企業を大きくするためには多角化が必要だと考えた山内さん。
インスタント食品、タクシー会社、ラブホテル経営をするなど迷走してしまい負債は膨れ上がっていきました。

経営が行き詰まってどうしようもない中、運命的な出会いが訪れます。

【任天堂初の理系出身の就職者、横井軍平との出会い】

いろんな企業に落ちてなんとか就職できた任天堂。しかし、横井さんは当時花札やトランプを製造していた任天堂に就職したことを恥ずかしいと思っていたそうです。

横井さんの仕事は製造機のメンテナンス。
機器の管理は退屈でしょうがなかったそうです。
もともと物作りが好きだった横井さん、工具を使っておもちゃを作っていたところ、それを社長に見られて役員室に呼ばれます。
横井さんはクビになると覚悟したそうですが、言われたのは

「それを商品として売りたい」

それが山内さんと横井さんの出会いでした。
横井さんのおもちゃ「ウルトラハンド」を商品化。
その後、横井さんは開発部に所属しおもちゃ作りに邁進します。

そして世間を沸かせたあのゲームが誕生することになるのです。

つづく

日本国内トランプメーカーとして最大級になった時でも、満足せず高みを目指す山内さん。
目指すべきヴィジョンや軸を持っているのが伝わって、カッコ良すぎます。

まだまだ任天堂にはたくさんの出会いがあるのでお楽しみに。

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