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『紫苑』

 仕事から帰ってくるとポストに一通の封筒が入っていた。淡い色の封筒にとても綺麗な字で私の名前が書かれていた。いつ見ても彼女の見た目とは相反する丁寧な文字には驚かされる。封筒を手に取ると少し何かの重さを感じる。封筒の中からはジャラッと鉄の音がする。何か金属が入っているらしい。(あゝ多分ネックレスだ。)嫌な予感がする。私は慌ててマンションの階段を駆け上がった。バタバタと駆け上がる度にジャラジャラと音を立てるそれに合わせる様に私の心臓も雑音を立てていた。何かの間違いであってほしい。でなければせめて間に合ってくれ。

 それは丁度手紙を読み終えた時の事だった。私の嫌な予感は幼い頃からハズレやすかった。だから今回だってこの嫌な予感はハズレるはずだ。そう何回も自分に言い聞かせて落ち着こうとしていた。だけどどうしてか今回に限ってだけはこの嫌な予感は当たってしまった。

 突然の事だった。勿論誰にとっても親しき人の死というものは突然起こりうる事だろう。特筆する事でもないのかもしれない。だけど、だけどどうしてもこの死を語るのであればちゃんと伝えておきたかった。深い付き合いの私ですらこの死は突然の死だったという事を。急に真空や空虚な深海に解き放たれたようにふわふわとする。目眩なのかもしれない。深い付き合いであったはずの私ですら今回気が付かず彼女の死は実行され今こうして私の手元には遺品として成り代わった彼女のネックレスが残るのみだった。そんな時だった。私の携帯に一通のメッセージが届いた。自分の心臓がもう破裂するのではないかとばかりに鳴っていた。通知画面には『シオン』と彼女の名前が表示されていた。『えっ!?』思わず声が漏れてしまったし慌て過ぎて自分の携帯のロックすら開けるのにてこずってしまった。やっとの思いで携帯を開きメッセージを読む。わかっていた。そんな奇跡の様な話がある訳がないと。神様はいないのだと。これは私の人生最大級の自己都合の押し付けになるのだと。(間違いであって。間に合ってと何度願ってももう意味はないのに。)それで良かった。後からどんなに叱られようと、この後私が死ぬほど苦しんだとしても構わない。どうか無事でいて!!そう願ったがそれは叶わず冷たい真実だけがたった十数文字で私に知らされた。重さのチグハグさに頭も心ももう壊れそうだった。叶う事ならその方が良かったかも知れない。(現実逃避したかった。廃人になればどれだけ楽だった事だろうか。)

 本文には『シオンの母です。シオンが亡くなりました。自ら命を絶ったようです。本人に代わり生前親交の深かったであろう方々から取り急ぎご連絡した次第ですetc...』やはりそれは余りにも突然だった。だが、、だがしかしシオンは苦しみからやっと、やっと、やっっっと、、、解放されたのだ。私は膝から崩れ落ち床に座り小さく泣いてそして小さく呟いた。『・・・本当にお疲れ様でした。』思わず大切な手紙を握りしめてしわくちゃにしそうになったがそんな事は私には出来なかった。大切な手紙になるのだ。勿論怒りの感情もそこにはあった。だがしかしシオンがどれ程苦しんでいたのかを一番に理解していたつもりの私の口から言える言葉はそれしかなかった。それしか。それしかなかった。
『本当にお疲れ様でした。』

 私はゆっくりと滲み出るかの様に泣いた。泣きじゃくる事はなかった。出来なかった。ただベランダでも泣いていた。小さく小さく蹲って煙草を吸った。煙草の煙がやたらと目に滲みた。涙が出ていたのは煙草の煙のせいにした。『このクソが、、』果たしてその言葉は誰に向けて撃ち放った言葉だったのだろうか。きっと全てに放った。そして一番は自分自身に放った弾丸だった。その弾丸で死ねたのならどんなに楽だった事だろうか。まだ春の来ないこの街のベランダでは風が吹き込んでいてカーディガン一枚では少し肌寒かった。

 携帯に保存されているシオンの写真フォルダは開けなかった。何度と何度と試みてはみたもののその度に私は泣き崩れてしまって前が見えなかった(お前、前髪切れよ?前見えないじゃん笑)それはシオンの口癖だった。私達はよくお互いの苦しみを我が身に起こった苦しみかの様に苦しみ、お互いに相手を思い、自分の事を思われて泣いた。お互いに『お前が泣いたら私が泣けないじゃん笑』それは私達の口癖だった。そうか、私はこれからこの類の感情に一人で立ち向かわなければならないのだ。やり切れない感情なんじゃない。『一緒にゴールしようね!』と学生達が交わす甘い約束があるでしょう?きっと色で表すならいちごミルクの色の約束。私達はそれの大人版の約束を交わしていた。いちごミルクではない『大人の約束』。だがその約束は守られなかった。けど破られた事より何も出来なかった自分が腹立たしかった。堪らず思いっきり床を叩き、自分の頬を叩いた。(こんな時でさえシオンは私に笑いかけるのだ「右の頬を叩くなら左も叩かなくっちゃ?笑」ってね。)

 私達は決して幼馴染という訳でも学友という訳でもなかった。初めてシオンを目にしたのは東京の夜の街だった。雨が冷たく降っていた。そう、その時もシオンは虚ろな目をしてタバコを吸って宙に煙を吐いていた。吐いた煙かその先にある何かをずっと眺めていた。私達はその日を境に毎晩会った。毎日遊び呆けていた。毎日が楽しかった。楽しかった。しかし私達には誰にも言えない『大人の約束』と固い絆があった。これが私達の最大の武器なのだ。そう。甘くない大人の約束という名の武器。
 
 少し話は脱線してしまうのだが当時、私は地方に住んでいた。シオンのいる街まで決して近い訳ではなかった。しかし会う度にお互がお互いを信用し、お互いに頼り頼られシオンが『死にたい』と言えば私が側にいた。私が『死にたい』と言えばシオンが側にいてくれた。そしていつの日かその『大人の約束』が交わされたのだった。きっとシオンが今、生きていれば私に一番に謝ったであろう。余りにも重たく錆びれた鎖の様な『大人の約束』を片方だけに遺してしまった事への謝罪。それを勿論私が咎めたりなどしない。その事をシオンは知っていてきっとヘラヘラした顔で謝る。(煙草の二、三箱を添えて)そして私は少し呆れた顔でそれを許すのだ。どうしてそんな事がわかるのかって?何故なら私が逆の立場ならきっとそうするに決まっているから。私達の間に言葉なんて必要なかった。声音を聞き、顔さえ見れば全てが理解できた。その後の時間の過ごし方はただの答え合わせだった。会う事の出来なかった間の時間の報告。同期作業の様なものだった。『そうだったんだね』『やっぱりかー』『よく頑張ったね』離れ離れに住む私達にとって時間はお金より価値のあるやものだった。(シオン、月並みな言葉しか出なくてごめん。)

 通夜と葬式の日程を聞き、すぐに東京へと向かった。あのメッセージが届いてからというもの記憶が曖昧なのだ。何を考えていたのか何を食べたのか気を抜くと今日が何曜日なのかまで飛んでいってしまう。きっと会社には有休の申請はしただろうし家の戸締りもした。煙草も持った。きっとどうにかこうにかして飛行機のチケットも自分で手配したのだろう。あのメッセージが届いてから、あの日から何故かシオンの笑顔と声が頭から離れないのだ。多分一日五百時間ぐらい思い返していた。あれ?もしかすると私は長い夢を見ていてふと目が覚めれば全てが怖い夢でしたー!などという陳腐な夢オチなのではないかと考える。いや、そうであって欲しい。シオンが後ろから私の頭を叩き『寝ぼけてんじゃねーよ笑』等と言って笑うのだ。私は神様を信じない。だけど今だけは信じてやるから『夢でしたー!』と神様よ出てきててくれ。そしたら全力で叩き倒して三回は殺す。『仏は三回までならOKらしいよ?笑』それもシオンの口癖だった。しかし寄りかかった窓ガラスの冷たさが、握りしめているチケットの行き先が、そして彼女の携帯を借りて行っていたシオンの母とのメッセージのやりとりが、その全てが『現実なんだよ。』と私に冷たく、冷たく告げるのであった。叶う事ならこの飛行機から飛び降りたかった。今ならまだ彼女に追いつけるのでは?などと考えていた。(シオンは天国に行っただろうか?いや、地獄か。)高度三千万フィートから落下すれば流石に地面も通り越して地獄にも達するだろう。私は意外と平気で笑えていた。大丈夫。お別れを言いに行くだけだから。最後ぐらいちゃんとしよう!最後ぐらい、、、ちゃんと、、、、
うん。ダメだった。空を飛んでいる間だけはめちゃくちゃ泣いた。東京に着いたら絶対に泣かないから空だけは許してね?シオン。

 地方に住む私からすれば『東京』は摩天楼。夜の街、逢瀬の街。だが私は知っているネオンの下は綺麗ではないし東京には東京人はいない。(私の知りうる限りでは)カップルはカップルではないし、あれは親子ではない。そんな街が私達は大好きだった。そんな大好きな街の中で私達は自家中毒に陥っていった。あんな事やこんな事、いろいろな事件もあったし警察に捕まるんじゃないか!?ってドキドキしなが全力で真夜中の三時に信号無視をして走り回った事もあった。私は、私達はこの街が大好きだった。

 友達のAは二年前に死んだ。Sは半年前に死んだらしい。Tはヤクザから逃切れただろうか?Rの奴、私達の事ペラペラ喋ってたらぶん殴って半殺しにしておはぎにして外に捨ててやる。絶対。絶対にだ。『一人、また一人とゆっくりと死んでいくのはどの街でも同じだなぁー』と東京の低くて狭い空を見上げながら煙草の煙を吐くついでにシオンはヘドみたいな台詞を吐いたのを今でも覚えている。『そう?私の地元じゃみんな寿命で死ぬよ?それか病気ね。あれは嫌だなぁ』はははと笑うシオンの横顔は丁度夕日をバックによく映えていた。暖かなオレンジも似合うシオンはとても綺麗だった。まるで映画のワンシーン。シオンと私では違う次元を生きているのかもしれない。ちなみに私もシオンも煙草の銘柄はいつも同じで変えた事がなかった。今を思えばそれはお互いに何となく感じていたゲン担ぎやジンクスだったのかもしれない。(結果的にシオンは死ぬまで銘柄が変わる事はなかった訳だし。それは頑なにだったし私も同じだ。)
 
 その日、東京は雨だった。夏の東京の雨は嫌いだったがこの時期の雨なら少しばかりは許してあげてもよい。『ま、東京といえば雨だよな。』お互いに好きな曲がそんな曲なのだ。ホテルで慌てて喪服に着替えて式場に向かった。タクシーを使った。私は東京でタクシーに乗りながら窓の外を見るのが大好きだった。東京は雨。お決まりの雨。忙しなく行き交う大都会の社会人達よ。よしよしお前達はよく働くんだぞ!そんな事をぼんやりと考えながら外を見続けていたら涙が落ちた。一粒だけ。(シオン一粒の涙ならセーフだよね?笑)初めて出会った日も雨だったなぁっと重たく思い出に耽ってしまった。どちらが雨野郎なのかダルい雨粒のかけ合いをした事があった。『お前がいるといつも雨じゃんかー!』『私は晴れ女だ!』と笑うシオンの髪はびしょ濡れでちょっと面白かった。『いやいや私だって!、、』あっ違う私が東京に来ると必ず雨なのだ。そんな事の証明なんてしたくなかった。地元に帰っても雨が降れば空を見上げて心を東京に忘れてきてしまう。答え合わせなんてしたくなかったのに片割れが死んじゃった今その答えが出てしまった様な気がして泣いてしまった。『女の涙は武器よ、飾りじゃないわ』『その中でも最上級は東京雨女の涙ね』シオンは元気な時は物凄く逞しいのだ。よくこの街での生き方やいろんな事を教えてもらった。『私にはできないもの』と言った私を『確かに笑』とシオンはお腹を抱えて笑った。(私が泣いていると話しも聞かずに真っ先に優しく包み込んでくれるあの優しさが私は大好きだ。)通り過ぎ様に見えた赤い傘をさしていた女学生がチラと目に入った。シオンにもあんな頃があったのだろうか?純真無垢な女学生。私はそっと目の前を通り過ぎる三秒間だけの女学生の幸せを願った。『貴方は強く生きて』すると間の抜けた声でタクシーの運転手さんが『はい?』と私に尋ねてきたのでお返事に『道混んでますねーこの先、工事してませんでしたっけ?』と精一杯の反撃をしてやった。『都会のネズミはね、ヤらないとヤられるからね。気をつけなよ?お田舎ちゃん笑』それもシオンの口癖で私はその例えが死ぬ程好きだった。ね?シオン?私は成長したよ!今なら都会でも暮らせるネズミに成長しているんじゃないかと胸を張って言いたかった。だがダメだった。やっぱりこの東京の雨のせいだ。こんな街じゃ田舎のネズミは死んじゃうよ。鈍臭いんだからさ。田舎の平和ボケしたネズミなんてすぐ死んじゃうさ。
ね?わかるでしょう?

 式場に着きタクシーを降りると思いっきり息を吸った。私はこれから今までにあったどの記憶よりも群を抜いて重たく悲しい思い出になる時間の始まりに今、立っているのだから。気合いを、気合いを入れてシャンとしなくては。シオンのご両親に初めて会った。なんだか想像と違ってガッカリだったし八つ当たりしたかった。(あんたらがちゃんとしていればこんな事には、、、)気持ちを落ち着かせたくてお悔やみを伝え足早に喫煙所へ向かった。昂った気持ちをどうにか落ち着かせたかった。前なら二人並んで吸っていた煙草。一人で吸うこういう時間にも早く慣れないとな。喫煙所から戻りお焼香の列に一人並んだ。そう、これからはどんなに辛い事にも一人で立ち向かわなければいけないのだ。ある意味でこれが最初で良かったのかもしれない。これからの時間を無事乗り越えれたらビールでも飲むか。私達はビールは嫌いだった。だって苦いじゃないか。それにビールではお互い酔えなかったのだ。でもこれが終わったら献杯したかった。それは勿論シオンへの献杯だったが自分への献杯でもある気がする。十数名が列をなしていて私の位置からではまだ棺は少し遠かった。一人、一人とお焼香が終わり列が進む度に私はその場に座り込みたくなっていた。あと二メートルもすればこの一週間の長い悪夢の答え合わせが出来てしまう。現実になってしまう。(シオンの遺体を見なければもしかしたら何かの希望が思い浮かぶかもしれないじゃないか。どこかで生きているのかもとか。)まだ私の位置からは棺の中は見えない。祭壇の遺影には一度も目を向ける事が出来なかった。生前となってしまった多分笑顔のシオンの写真を見てしまったら私は正気を保てる自信がなかった。なので私は真っ直ぐ瞬きもせずに棺を何千回と眺めていた。半分は睨みつけていて半分は涙を堪えていたので物凄い形相だったと思う。次が私の番だ。間の抜けたお経を読み上げる坊さんの頭を今、後ろから叩いたらシオンは大爆笑するだろう。そしたらシオンは蘇るだろうか。そんな事を考えているうちにやっと私の番になった。物凄く長い間会っていなかったかの様な不思議な感覚だった。(最後にシオンの笑顔を見たのはいつだっけ?そしてそれはどこだっただろう。)何十年ぶりに再会したかの様な再会。久しぶりにシオンと対面する事がやっと出来た。長かった。久しぶりに再会したシオンはいつもと違う化粧になっていた。薄く淡い綺麗な化粧。(あゝきっとこの顔を見たらシオンは怒るだろうなー死に化粧とやらに。)しかし綺麗な顔を見れて少しホッとした。少なからず顔は無事に死ねたらしいから。『シオン、、』ずっと我慢していた涙も感情も全てが限界で荒く大波の様に泣いてしまった。
『シオン!シオン!シオン、、、』色々な考えが頭をぐるぐると目まぐるしく巡っていた。遺体となったシオンを担いで逃げたかった。連れ去りたかった。この後流れ作業の様に行われる儀式によって無理やりのお別れなんて私には許せなかった。だがこれはシオンのお葬式なのだ。私の一番大切な人のお葬式。私がそんな事を行えばシオンに迷惑をかけてしまう。シオンの式が台無しになってしまう。それはシオンを、シオンの尊厳を踏み躙る事になってしまうのではないだろうか。正気を保とうとゆっくりと息を吸った。落ち着きだしてからもう一度ゆっくりとシオンを眺める。遺体となったシオンにはいつもと違う点がもう一つあった。シオンはいつもネックレスを着けていたのだ。そう封筒に同封されていたネックレス。最初は冷たかった金属も今は私の体温が流れていて温かくなっている。私の体温が吹き込まれた遺品となったネックレスは今は私が着けている。他の誰でもなくこの私が。シオンが最後に選んでくれたのが私で私はそれが嬉しくも悲しかった。苦しかった。次は私が着ける事になったその呪いのネックレスは私の首に重く、重く伸し掛かっていた。だが私が生きている間にこのネックレスは絶対に外さない。なんなら私が死んだとしても絶対にこのネックレスだけは守り抜いてやる。(シオンを守れなかった私の「守る」の重さがどれ程なのかわからない。一番守りたかった者を失った今の私の「守る」の意味とは。)

 生前シオンに尋ねた事があった。『そのネックレスいつも着けているけどシオンってキリスト教徒だったっけ?』そう、それは聖母マリア様のネックレスだった。女性が身に着けるには少しばかりチェーンが長い様な気がする。その問いにシオンはゆっくり、ゆっくりと答えてくれた。『これ?これは元彼の形見だよ』『私はキリスト教じゃないよ』えっ。と驚きの声を漏らし次の言葉を必死に探していた私を見兼ねてかシオンは話を続けてくれた。『前の彼氏はね、自殺したんだ。飛び降りでね、私の目の前で飛んだんだよ。』『最後は笑顔だった。今までありがとうって、お先にごめんね、って言って笑顔で飛んだ。』『ずっと苦しんでいたからやっとあの人は苦しみから解放されたのかと思えたからそこまで悲しくはなかったかな?喪失感はハンパなかったけどね』今だに次の言葉を探せず声が出ない私。やっとの思いで出した言葉は『か、彼氏さん天国にいるんだね』シオンの目を見つめる事が出来ず、ずっとそのネックレスを見つめていた。『ううん。あの人は今地獄にいると思うよ。キリスト教じゃ自殺した人は地獄に堕ちるからね』シオンはずっとずっと遠くを見つめながら話している様だった。すごく遠く。きっと時間も『今』ではなくきっと彼が死んだ当時を思い出しながら話している。この部屋には二人しかいないのに、同じ午前零時なのにお互いに違う次元にいる様だった。シオンの見つめるその先に地獄があり、そこに居る彼の事を案ずるかのようにシオンは優しく話してくれた。優しく穏やかでいつもの何倍もゆっくりと話すシオンの声だけが今の私の全てで、世界の全てだった。つまりシオンの声しか聞こえなくて世界はこの六畳一間が全てだった。それ以外の事柄も世界戦争も私にはもうどうでも良かったし実際シオンの事で頭は一杯だった。そしてシオンは更にこう続けた『地獄に堕ちるより生きるのが辛かったんだと思う。私を置いて先に一人で逝くなんて酷い彼氏だよね?殴ってやりたい笑』笑っているのに笑っていなかった。きっと涙が枯れるまで泣き尽くしてしまったのだろう。涙も流れていなかった。それは虚無に近いのかもしれない。シオンは虚無に陥っていた。私は精一杯の力を込めて、精一杯の愛を込めて精一杯、精一杯の優しさを込めて言った。『酷い彼氏さんだよ!酷い!だからシオンが苦しまなくていい。そんな奴のネックレスなんて早く捨てちゃおうよ。』キラッと輝くそのネックレスの本来の意味すら知らない私にとってそれはただの呪いの様に思えた。早くシオンを解放してあげたかった。でもシオンは『ダメなんだーだって今でもあの人の事が大好きだもん』『私と彼を繋いでいるのはもうこのネックレスだけなんだしさー』そう言ってシオンはネックレスを強く握りしめてゆっくりと瞼を閉じた。本当は強く抱きしめてあげたかった。でも私の意気地なしと彼の話に耽っているシオンの崇高さによって私はシオンに触れる事が出来なかった。この記憶に私なんかが登場してはいけないのだ。彼と彼のネックレスとシオンの三つの間にあるこの絆はこの人達だけの特別なもの。神聖なるもの。私はそっと音も立てずにその舞台から身を引く事が最大のベストでこれ以上の汚点を残せばシオンに嫌われていただろう。そしてその晩、私達は同じベッドでゆっくりと泣きながら眠りについた。いや、泣いていたのは私だけだったかもしれない。だがシオンもきっと涙が枯れてさえいなければ泣いていたと思う。その間ずっとシオンの胸元では淡く光るマリア様がずっと両手を合わせて祈ってくれていた。私もそっと瞼を閉じささやかに祈った。(どうかこれ以上シオンに不幸が降りかかりません様に。)

 私は式が終わり次第足早に東京を出た。シオンの居ない東京になんて一秒だって長居したくなかった。すぐさま電車に乗り込み私はある街に向かっていた。それは私達が約束した『最後の地』二人で来るはずだった海に面したとある街。電車を二、三本乗り継いでようやく辿り着いたその街に来るのは今日が二回目で次に訪れる事はもうない。絶対に。そう三度目にこの街を訪れる事はないのがシオンと交わした『大人の約束』の副産物の様なものだった。電車を降り海辺へと向かう。前に来た時は海風が強くて凍えそうだったが今日は凪の日なのだろうか?とても穏やかだった。ゆっくりと一歩ずつ歩みを進め私は確実に海に、そして『大人の約束』に近づいていく。大きな大きな海で名前の割に白くもない岩浜。もしかしたら波の白さが名前の由来なのかもしれない。私はその岩浜に腰を下ろした。時々海風が吹き温まっていたネックレスが冷えていく。私は海を眺め、煙草に火をつけた。大きく目一杯肺の隅まで煙を吸い込んだ。苦しみたかった。咳き込んで感情に浸りたかった。そんな姿を見せたら後ろからシオンが現れて背中を強く叩いてくれる様な気がした。『シャキッとしろよ!笑』ってね。だけどダメだった。私達はお互いがヘビースモーカーで相手が咳き込む姿なんて一度も見た事がなかった。(あゝこんな小さな事ですら叶わないのか。咳き込む事すら神は許してくれないのか。)駅からの通り道にあったコンビニで350mlの缶ビールを買った。一番高いやつを買った。シオンがいつも吸っていた煙草も買った。缶ビールを開けて空に向かって高々と掲げた。言葉は出なかった。唇を血が滲むぐらい固く喰いしばんだ。心の中で人生で一番の優しさと最大の愛を込めて呟いた。(お疲れ様でした。)そしてビールを一口、やはり苦かった。でも冷えているうちに一気に飲み干した。(もっぱらこの海風ではビールはいつまででも冷たかっただろうけど。)
よしっ!と気合いを入れて私は立ち上がった。親愛なるシオン。大好きなシオン。
私はこれから私のケジメをつける。
あの世でシオンにまた出会えたら沢山話そう!あの世でまた出会えたら元彼を紹介してもらおう!それまでどうかお元気で!(死んでるやつに言う言葉ではないか笑)
Adiós amigo

 

 最後に私は思う。人の死は軽いのだろうか。いや重たいのだろうか。そして私自身の死はどれ程の重さがあろうことか。私はまだよくわからない。ただそれは遺された者だけがその重さを知る事ができるのだ。遺された者にしか出来ない事もきっとあるのだ。そう、例えば後悔や苦しみや悲しみ等。私は私の後悔と共にあとどれ程の時間を生き続けるのだろうか。ねえ?シオン?シオンが置いていった形見も信念も私がずっと大切に守ってやるからね。シオン。守ってあげられなくてごめんね。ごめんね。私、馬鹿だから。何もかもが終わってからしか気付けなかった。気付いてあげられなかった。もし私が今すぐ死んだらシオンはめちゃくちゃ怒るんでしょ?だってそれがシオンだから。シオンならきっとそうすると思うもん。そして私が逆の立場だったら私もきっと怒ると思うもん。いや、ごめん。嘘吐いちゃった。私が死んで、後追いでシオンが死んだらきっと私は走って迎えにいくだろう。大好きなシオンにまた会えて、嬉しくて嬉しくてきっと走って迎えに行く。もしそこが地獄だろうと天国だろうと悠久の時間をかけて沢山の思い出話をして来世こそは二人でゆっくりと過ごそう。ゆっくり煙草を吸いながらゆっくりと。ゆっくりと。あっ、あの世に煙草はあるのだろうか?笑
まっ、無かったら無かった時に二人で考えよう。

 最後のはずが最後じゃなくなってしまったね。だって話す時間が少な過ぎてさ、もっともっともっともっと話したかったんだもの。だからこれで本当に本当の最後にするね。

『長い間、本当にお疲れ様でした。よく頑張りました。ゆっくり休んでね。』

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