幸田文 『終焉』より

 仰臥し、左の掌を上にして額に当て、右手は私の裸の右腕にかけ、「いいかい」といった。つめたい手であった。よく理解できなくて黙っていると、重ねて、「おまえはいいかい」と訊かれた。「はい、よろしゅうございます」と答えた。あの時から私に父の一部分は移され、整えられてあったように思う。うそでなく、よしという心はすでにもっていた。手の平と一緒にうなずいて、「じゃあおれはもう死んじゃうよ」と何の表情もない、穏かな目であった。私にも特別な感動も涙もなかった。別れだと知った。「はい」と一言。別れすらが終わったのであった。

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