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運転⇔走る 拡張される身体

この4月から始めたことが二つある。新入社員向けの安全運転教育と、趣味としてのランニングだ。一見すると全く関連のないこの二つの事柄が、僕の中で何とも不思議に結びつきつつある。

レース専用車両を設計、開発、制作するのが僕の職場の主たる事業だ。モータースポーツに関わる技術者として、一般の人よりも運転をはじめとしたクルマとの関わり方については一段高いレベルであることが望ましい。僕は過去にとある自動車メーカに出向していて、「性能の80%以上を安全に引き出しクルマを正しく評価できる運転技能を身に着ける」ための教育を受けている。そんな訳で事業部として新入社員の運転教育は、僕が教えることになった。

4月入社のY君の愛車は古いMAZDAロードスター。Y君は趣味で地元のサーキットを走るような、いわゆるクルマ好きであり運転ももちろん好きだ。運転歴の浅い彼ら新社会人のなかから、ある程度安心していられるだろうという理由で、最初にY君の助手席に座ることにした。

クルマの三要素を尋ねられると、「走る」「曲がる」「止まる」であると多くの人が答えると思う。では、運転の三要素は答えられるだろうか。答えは「認知」「判断」「操作」で、これは教習所で教わる筈だ。周囲や自車の状況を確実に認知し、状況に応じた適切な判断を下し、それを具現化するために適切に操作する。ドライバーが認知し、判断し、操作する、というサイクルをひたすら繰り返しながら、結果としてクルマが、走り、曲がり、止まるのだ。

交通事故が起きた時、その原因としてよく聞くのが「行けると思ったが…」という判断のミスや「ハンドル操作を誤り…」といった操作のミスだが、そもそもその前段となる認知の部分が置き去りにされているという印象が拭えない。確実な認知とはどの様に獲得すべきか見直す必要がある。

突然だが、阿頼耶識システムというものをご存知だろうか。これはアニメ「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」に登場するもので、人の脊椎にピアスと呼ばれる接続機器を外科手術により埋込み、パイロットと機体(モビルスーツ)を接続し両者をナノマシンを介して直結する架空のシステムだ。これにより、パイロットの脳内には空間認識を司る機関を擬似的に形成され、モビルスーツをあたかも拡張された身体であるかのように稼働させることができる。ストーリー上、(機械を体に埋め込むという、非人道的とされる外科手術を要するため使用できない)正規軍と対峙する(大人に利用される為に無理やり外科手術を施され力を得た難民の)少年兵たちが対等以上に戦えるようになるために(宇宙世紀シリーズにおけるニュータイプという概念の代替として)設定されているのだが、(ニュータイプになれない)僕たちには、クルマを運転する際にもこのようなシステムが必要だと思っている。いや、正確に言うと、そこまで極端ではなくとも「疑似阿頼耶識システム」くらいのものは必要だと思うのだ。

話をY君に戻す。運転教育の初めに、彼にあることを指導した。走り出したあとすぐさま彼から出た言葉は「クルマの細かい動きが感じられる」「クルマの運転が楽しい」だった。この段階で彼は既に疑似阿頼耶識システムを獲得している。趣味としてクルマに乗るようなY君ですらできていなかったこととはなんだったのか。
それは、ドライビングポジション、すなわちクルマにどう座るかということだ。臀部から肩まで、いかなる操作を行う際にもシートに密着して離れない、そんな姿勢をシート位置を調整することで作るのだ。
腰を中心とした背面はシート、すなわち車体と直接接続される。すると細かな段差による微振動や自分の目線と車両の向きの僅かなズレから4つのタイヤの位置関係など目に見えないはずの情報が、腰を伝わり脳に伝達される。人馬は一体となり、クルマはあたかも手足の延長であるかのように捉えられ、身体が拡張する感覚を得られる。これがY君の体験であり、僕が日々感じていることであり、すなわち疑似阿頼耶識システムの正体だ。運転時における、人間の認知機能を高める装置は、実はすべてのクルマに最初から備わっているものだ。しかもこれは、阿頼耶識システムと違い、外科手術など必要ない。
認知というとどうしても視覚のことだと考えがちだが、クルマの挙動の認知を視覚のみに依存するのではなく一部を腰に託すことで、情報を処理するキャパシティは飛躍的に向上する。結果として視覚をより広く周囲を見渡すことに使えるようになるのだ。疎かにされがちなドライビングポジションだが一人一人のドライバーがこれを見直すことで確実に事故は減る。

運転の好きな人と嫌いな人の違いはどこからくるのだろうか。僕はその答えもドライビングポジションにあると考えている。身体が拡張される感覚は大きな快楽だ。適切なドライビングポジションを設定することで、クルマは自身と一体化しモビルスーツとなり、運転(操縦)は快楽そのものになる。

そして僕は、同種の快楽を別の物から感じ始めている。それがランニングだ。

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元々僕は散歩が好きで音楽を聴きながら近所の川沿いの土手を歩くことが多い。クルマが侵入できないその場所には、同じように歩く人はもちろんのこと、自転車で走る人やランナー達が各々安全な道を謳歌している。ある日すれ違うランナーの顔を見た時、その表情に目が留まった。苦しそうでありながらどこか楽しそうであり、どこか満足気なのだ。元々僕は走るのが嫌いだ。辛いことはなるべくやりたくない。だが、そのランナーの表情から読み取れる感情に興味が湧いてしまった。好奇心が嫌いを打ち負かしたのだ。気付いたらApple Watchとランニングシューズが手元にあった。

美しいフォームで走る人は頭の位置がぶれない。腰から上、頭までが水平移動するかのように見え、それに合わせて手足が動いていくイメージを得てから、腰に乗る感覚を意識するようにした。すると、歩いているときには意識しなかった自分の手足の存在を明確に感じるようになる。あたかも腰から頭までが自身の全てで、元々自分のものであるはずの手足が、拡張された身体であるかのような感覚を覚えたのだ。視線は進むべき方向を決め、腕を振れば足が連動し、踏みつけた足が推進力を生みだす。それらのパーツを支え繋ぐのが腰から肩にかけての部位で、クルマとの接続点と一致する。運転時に得ていた身体拡張感による快楽をランニングでも感じるようになり、運転と走るが身体を介して地続きの物になったのだ。

運転による身体の拡張には車両(車体)が介在するのに対し、ランニングは身一つで身体の拡張感を得ることが可能だ。そして、日差しも、風も、時には雨も生身で受け止める必要がある故に、世界と自身との間には境界は存在せず、ランナーは自然や風景に溶け込むことが可能だ。一方で公道をドライブする際には、交通法規や他車が作る流れが存在し、選べる道は限られ、速度やリズムは他者によって設定されている。これでは、都市とインフラの文脈の外側に出ることは非常に難しい。これに対してランニングは、ほぼ自由に道を選べて、歩いてしまうのも、時には道端に座って休むのも自由だ。誰かに与えられた文脈ではなく、一人一人が思い思いの速度や距離感で世界と接続できる。
これらはランニングの方が優れているということではなく、両者の間に、共通点と差異が共に存在するということに過ぎない。クルマでしか得られない加速感や、機械を媒介とするが故の操る楽しさ等はランニングでは決して得られないものだ。

あのランナーの不思議な表情がどんな感覚から生まれたものなのかはまだわからない。運転により力強い物との一体感と万能感を得ることと、走るという行為により強大な自然に溶け込み、矮小だが確実に存在する自己を再認識すること。これらを往復し続け、その感覚を磨き続けることこそが最高の楽しみ方ではないだろうか。こんなことを考えながら走る僕は、きっと似たような表情をうかべている。

ランニングシューズの紐を結ぶと「止まるんじゃねぇぞ」オルガの声が聞こえてくる。声に従い、走り続けよう。

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