見出し画像

街の歴史に接続するラン:群馬県太田市

出張先での楽しみ方というのは人それぞれではあるのだと思うのだけれど、実際のところは、観光名所にちょっと寄ってみるとか、ご当地のうまいモノを(主に酒の肴として)探すとか、仕事で出かけているのだから時間が限られている中で何とか楽しもうとするものなのだと思う。
群馬県太田市。ここを訪ねるのは昨年末以来だろうか。数年前は業務の都合でさんざん通った土地だが、取引先とホテルと呑み屋ぐらいしか記憶に残っていない。あえてそれ以外を挙げるとすると、太田焼きそばと焼きまんじゅうぐらいは食べに行っているが観光ガイドに乗るような場所をわざわざ訪ねるようなことはしてこなかった。仕事の疲れて余裕がなかったり、時間的なゆとりがないということもあったが、そもそも街そのものに(太田市に限らず)あまり関心がなかったのだろう。それが前回の記事にあるように、ランニングを通じて街の歴史や足跡に触れることをしないのは非常に勿体ないのではないかと思うようになった。

下の写真を見てほしい。これは国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから拝借した1947年に撮影された写真だ。写真中の赤いラインが今回走ったコースで2020年現在も存在する現役の道路だ。市の中心部からはやや東にそれたこの道は公園通りと呼ばれており、現在南端の西側には運動公園がある。北端は現在のSUBARU群馬製作所本工場だ。

画像1

出展:国土地理院 地図、空中写真閲覧サービス

南端に広がる大きな敷地はなんだかわかるだろうか。これは戦時中には大泉飛行場と呼ばれ、戦後米軍に接収され、その姿が写真上に残っている。敷地内中央にある丸と丸を太い線でつないだものが滑走路だ。北端の中島飛行機群馬製作所から南端の大泉飛行場までを結ぶこの道路は、戦時中、中島飛行機専用道路と呼ばれ、群馬製作所で製造された飛行機が翼を広げたまま大泉飛行場まで輸送され、テスト飛行、品質確認を行った後に全国に納品、配備されるためのものだったのだ。道幅は33mもあったらしく、現在も片側2車線で立派な道路だ。今回走るのは戦時中に飛行機が運ばれたのと同じ経路だ。

画像2

SUBARU群馬製作所の門前交差点から走り始める。
SUBARUのカラーである青の制服を身にまとった人とすれ違う。どうやら周辺には従業員用の駐車場が点在しているようで夕刻の今は直の変わり目なのか、出勤していく人たちのようだ。
100メートルも走らないうちに高架線をくぐる。東武伊勢崎線だ。さらに100メートルでもう一つ高架下を過ぎる。こちらは東武小泉線だ。
道沿いを観察すると運送業や倉庫業の多さに気付く。やはりここは企業城下町。SUBARUの自動車関連部品を取り扱う業者が多いのだろう。そのほか取り上げるべき特徴はほとんどなく、コンビニやパチンコ屋が並ぶだけだ。良い言い方をするならば生活に溶け込んでいる。片側2車線の割には走っている車が少なくやはり町のインフラとしては過剰な広さなのだ。だがこの道幅は翼を広げた飛行機には必要なものだったことは間違いなく、名前こそ中島飛行機専用道路から公園通りへと変わってはいるものの、太田市民の皆さんにとっては誇り高き道なのかもしれない。本工場から離れるほどに通勤者と思われる方たちは減っていき、代わりに目にするようになるのはランナーだ。徐々に公園通りの名の由来である太田市運動公園の気配を感じていく。信号は少なく平坦な道が続く。ランニングにはうってつけの道だ。そうこうしているうちに運動公園の門が見えてきた。
ゴールは近い。運動公園を通り過ぎ右に大きくカーブする。かつての飛行機の搬入口からはやや西にそれたところにSUBARU関連の施設の門を見つけここをゴールとした。走行距離は2.7km。やや物足りない気もするが出張先であることを考慮するとこれぐらいがちょうどいいのかもしれない。

画像3

大泉飛行場は、現在SUBARU大泉工場として運用されている。大泉工場で主に生産されているのはSUBARUのアイデンティティそのもの、すなわち水平対向エンジンだ。通常の直列気筒エンジンはピストンが上下に運動するが、水平対向エンジンは(その名の通り)水平方向にピストンが動く。そのピストンの動きが背中合わせのボクサーのように見えることから「ボクサーエンジン」とも呼ばれる。このタイプのエンジンは、日本メーカではSUBARUのみ、海外を含めても、ポルシェとBMW(2輪用のみ)ぐらいしか採用、生産していない。スバルの誇り=「Proud of Boxer」なのだ。
群馬製作所で完成した飛行機を運ぶための専用道路は、大泉工場で生産されたエンジンを群馬本工場で自動車に搭載するために利用される公園通りへと姿を変えている。この道を往復でランニングするのであれば、往路は両手を翼のように広げて走り、復路はシャドーボクシングをしながら走るのが良いのかもしれない(恥ずかしいからやらないが)。

さてランニングは終わったがこのままホテルに戻ってどこかで一杯というのももったいない気がしてしまった。ここで再び最初の写真を見てほしい。

画像4

ランニングルートからみて北東に怪しい形があるのがわかるだろう(青線部)。太田は飛行機⇒自動車の街である以前から古墳の街なのだ。帰り道はエンジンが運ばれるルートを歩き、途中で道をそらして古墳に寄り道することにした。
まずは一番西側にあるひときわ大きな前方後円墳へ。これは太田天神山古墳(別名、男体山古墳)と呼ばれるもので、実は東日本最大の古墳だ(国指定史跡)。玄室は竪穴式でこの方式は大和王権ゆかりの人物にしか用いられないものらしいがかなり大昔に盗掘されており副葬品等はあまり発掘できていないようだ。ただ同時代において都から遠く離れたこの地にこれだけの規模の墳墓を造られていることからもかなりの有力者の墓であることはうかがい知れるだろう。
辿り着いてみるとどこが入口(と呼ぶのが正しいかすらわからないが)かわからない。とりあえず田んぼの畦道を通り説明版を見つける。隣には鳥居がありその奥にはプレハブのような(失礼)お堂がある。これが天満宮であることから「天神山」古墳なのだそうだ。(写真はtop画像を参照してほしい。)
近くからみるとその大きさに圧倒される。周濠はしっかり残っており、草もしっかり刈り取られている。力を入れて管理しているのは感じられないのだが、周辺の住民の方々には親しまれているのではないかという雰囲気が感じられる。前方部の外堀は東武小泉線(ランニングの時にくぐった線路の先だ)に削られているものの全体としてはしっかり保護されているのだなと感じられた。訪問者かつランナーの視点で見ると、せっかくだから周遊の遊歩道でも整備してくれればいいランニングスポットになるという印象なのだが・・・。

画像5

画像6

県道2号線を挟んだ西側、すぐ隣には帆立貝形古墳があるがこちらは後回しにして、天神山古墳の中心線の先にあるA倍塚を目指す。県道から一本道を入った住宅街の小道をGoogleMapを頼りに歩く。家屋に視線がさえぎられなかなか見つけられず周囲を数分彷徨ってやっとの思いで見つけた。どう見ても近所の住人が畑として耕作しているところを通らないと倍塚には辿り着けない。写真を撮るのも庭を覗き見ているようで憚られたがささっと撮影してこの場を後にする。

画像7

気を取り直して県道に戻る。最後は女体山古墳だ。
こちらは帆立貝形古墳といわれる形式で、円墳に小型の方形張り出しがついたもので、まさに帆立貝の形をしている。その小型の方形部分が県道2号線沿いから侵入できる部分になっており、入口が非常にわかりやすい。ちなみに女体山の名称は天神山古墳の別名、男体山古墳と対になる(両者の中軸は正確に同じ方角に設計されている)ことからつけられた名称のようだ。方形の部分の形がどこからどこまでなのか、実際に足を踏み入れてもわかりにくいのだが、本体である円墳部分はこんもりと盛り上がっており、住宅街の中の緑地として安らぎを与えてくれそうな雰囲気だ。円墳の頂上手前あたりには小さなお堂があり地域の方により手入れをされている様子が感じられた。

画像8

画像9

今回の散策はこれで終了だ。国の史跡であることを考えるとやや管理が雑なように感じたもののいい意味で地域の方々の暮らしの中にひっそりと佇んでいる様子がうかがえ非常に充実した散策だったと思う。
県道2号線に戻り北西に向けて歩く。ここでもう一度空中写真を見ていただきたい。

画像10

おさらいになるが、赤のラインがランニングルートで旧中島飛行機専用道路だ。青が今回訪問した古墳群。そして黄色が県道2号線だ。
古墳には、被葬者の威光を世に示すという役割がある。その役割から考慮すると、(僕の勝手な推測に過ぎないが)県道2号線は建造された当時から存在する街道だったのではないかと考えられる。
その県道2号線と旧中島飛行機専用道路が交差するのが、ランニングルートの起点としたSUBARUの工場前にあるのだ。古墳と飛行機と自動車。一見すると不連続ではあるがこの街に確かに刻まれた歴史が、今を生きるSUBARUの前で交差しているのだ。
ランニングルートを探ることで歴史を感じ、歴史に触れることで道の存在を見つめ直す。道を走ることで歴史に接続され、結果として僕と街とが接続される。ランニングという切り口があったからこそ見つけられる街の魅力というものがあるのだ。
県道2号線は太田市内を西に延びている。次にここに訪れた際には西へ西へと、僕と街との接続点を広げていこうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?