自分ではどうしようもない、という気付き

「誰かに助けられている・・・」そう、はっきりと思うようになったのは年を取ってから最近のこと。特定のことではなく、「いままでの自分だったらうまくいかなかった。この選択はしなかった。」などの気づきのことです。

若かったときは「自分でやり遂げた。自分の選択が良好であった。」と思うことが多かった気がします。だから、やり遂げられなかったときは「なにかの障害があった。」とか「勧められて選択を誤った。」とか他の存在によるものとしていました。

「自分でできる範囲」が広かったように誤解していました。食べることからして自分ではどうしようもないのに・・・。

ただ、「自分でできる範囲が広い」という誤解は、反面、可能性があるということなのかもしれません。同時に、幾度となくチャレンジし他の存在のせいにしながら失敗を積み重ね、自分でできる範囲を実情の狭さに修正していく。それが、長く生きるということだろうと、最近思うようになりました。

「自分でできる範囲は将来狭くなる」。若いうちにそう悟らせてしまうことは善か悪か。行儀良く生きることは、"将来の狭さ" に若い時から押し込めているのではないか。エリート支配層のわかりやすい管理のために、「君の将来はこんなもの」として生きる範囲を決めつけてはいないか。

望みがないことを絶望というそうです。

「どの道、自分はこんなもの」としてしまえば、"行儀が悪い" とされる「多動でなんにでも興味を持つ子供らしさ」を老化させるのではないでしょうか。

「わたしは今日まで生きてみました・・・」70年代のニューミュージックと言われた時代の歌にあります。「今日までそして明日から」。「・・・そして今 私は思っています 明日からもこうして生きていくだろうと」。締めくくりは、子供から大人への宣言であるかのようです。


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