定義を必要とする社会で自由に生きるとは(性別について考える)

連休初日で、エライ重い課題に首を突っ込んでしまいました。ただ、いまのぼくの考え(浅はかなのでお許しを)を書き留めておこうとおもいます。

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こどもは生まれるにあたって選択権がない。生まれたときの境遇もしかり。つまり、自身が選んで生まれてきたわけではありません。そこそこの年齢になって、自身で選べる選択権を有するようになれば、「どうありたいか」を選択できるようになります。それは、性別も然り。

太古よりあったのは、性別を選んで生きてきた(市井・風俗ものの伝記などで痕跡あり)が、それを社会が容認しなかった歴史だと解釈しています。

選択制性別(属さないという選択も有)。これを既存・伝統優先社会が容認すれば、"定義" の大変革を余儀なくされます。"定義変更" にともなう混乱は長い年月をかけても容易に収まらないでしょう。やっと新しい社会となっても、選択権を行使する年齢になれば、「自身は何者であるか」を否応なしに表明 "定義" しなければ、社会構成員として認識されなくなってしまいかねません。認知されて初めて社会に受け入れられること(定義に応じた適正で公平な扱い)になるからです。

ただ、選択権の行使はいつでも何度でもできなければ "自由権" の侵害となってしまいます。自身の定義は自身の都合で変えられることは容認されなければならないのでしょう。ただ、それは、自身の周辺に混乱をもたらし、本来享受できる「定義に応じた適正で公平な扱い」が滞ってしまうことにもつながります。

「自身はどうありたいか」その永続性を自身で保証・保障できるか。問われているのは、これではないかと思った次第。

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性別に限らず、 "自由" とはなにか。を、ずいぶんと考えさせれました。私のように浅はかに思いを巡らせるだけでは、現実社会では受け入れられない。"自由" を保証・保障できる自身とは何か、また、答の出ない道に迷い込んだ連休初日です。

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