見出し画像

【深い社会】22 この子らを世の光に

マカレンコとほぼ同時期に活躍した学者を紹介します。
ヴィゴツキーです。

レフ・ヴィゴツキー
https://ja.wikipedia.org/wiki/レフ・ヴィゴツキー

ちょうど、武田セミナーの「討論」の講座で登場したのでびっくりしてしまいました。

ヴィゴツキーは、ピアジェの発生的認識論を受け取り、さらに発展させた学者です。
「心理学のモーツァルト」なんて呼び名もあるらしいです。

ヴィゴツキーと言えば、「発達の最近接領域」理論。
これが構成主義の大きな理論的根拠となっています。

ここに、2人の子どもがいます。
2人に知能検査をしました。
2人とも8才程度の知能であることがわかりました。

いや、待って。

もう一度テストをしました。
こんどは、援助やヒントを出しながら、取り組みました。
すると、結果どうなったか。

1人は9才。
もう1人は12才の判定になったのです。

あれ?
なんで?

ここで、ヴィゴツキーは考えました。

子どもが一人で取り組んで得られた結果「現下の発達水準」
そして、他人と協同的に取り組んで到達した「明日の発達水準」

この間の部分が、子どもの発達の可能性を示すんじゃないか。
ならば、子どもは一人で学ばせるのではなく、協同的に学ばせるべきだ。

この考え方が、「発達の最近接領域」。
社会構成主義です。

「やっほー!構成主義最高!学び合い最高!!」

おいおい。
やーれやれ。だぜ。
だから、形式的なんて言われるんですよ。

そもそも、なぜ、ヴィゴツキーはこのような研究をしたのでしょうか。
それは、テストをした2人の子どもが、

「障害児」

だったからです。

帝政ロシアの頃、障害児は養護施設に集められ育てられるようになりました。
ソ連になっても、その方針は拡大し、障害児たちはそれぞれの施設で教育を受けるようになります。

良く聞こえますが、ソ連を支える労働者としては、障害をもつ子は足かせとなると、
幼いころから親から強制的に隔離され、
寄宿施設に入れられる様を想像すると、胸が張り裂けそうになります。

施設での教育方法も、未熟なものでした。
障害を改善する余地はないものとされ、ほぼ無賃で働かされたり、放置されたりと教育機関とは思えない状態だったようです。

(ちなみに、当時は戦争でたくさんの兵隊たちが四肢に障害をもつことになりますが、彼らは環境の厳しい僻地の施設に送られました。その後の記録はほとんど残っていません。ひー)

そんな中、ヴィゴツキーは大学の研究機関で研究することになりました。
彼が立ち上げたのが、「ソビエト障害学」。
「障害」の特性を、様々な実験のもとに明らかにし、
克服の方法、障害児の発達実現の方法、
生産活動に参加させる方法などを確立していきます。

その上で施設に閉じ込めていた子どもたちを、一般の学校の子ども達と積極的に交流させるなどの取り組みをしました。
今で言うインクルーシブ教育です。

さらに、その過程で作り上げていったのが、「ソビエト児童学」。
障害児を含めたすべての子どもたちの発達概念を明らかにしようという学問です。
ヴィゴツキーは雑誌「児童学」の編集委員となり、自らもたくさんの論文を書き上げていきます。

中でも目を見張るのは「困難児」の研究。
当時の反社会的な子どもたちが、それぞれのもつ特性による行動の結果であること。
きちんとした手立てを採れば教育可能であることを示しました。
まさしく、今でいう「発達障害」の概念にすでに気づいていたのです。

思いは一つ。
「障害児を世の光に。」

放置され、差別されていた人々も、社会を構成する一員であることを証明したかったのです。

残念ながらヴィゴツキーは38才の若さで、結核で亡くなります。

彼が立ち上げた児童学も、階級化を促す原因になっているとされ、
効率化を目指していた集団主義教育によって弾圧されます。

研究会は解散させられ、「児童学」という名称の使用は禁止されました。
ヴィゴツキーの論文群も黙殺されました。
ソビエト教育界におけるプロレタリアート独裁です。

さて、その後のソ連の障害児教育はどうなったのでしょう。

ソ連の障害児教育が変化をしたのは、1980年代後半から。
ゴルバチョフによる、ソ連の改革が始まったころからです。

外国の知識がソ連に流入し、
施設に閉じ込められていた障害児・障害者たちに様々な支援、
手立てがとられるようになりました。
障害のあるものの権利と自由が確立されたのです。

ゴルバチョフは一連の改革を次のように名付けました。

国家の構成主義的革命、
 「ペレストロイカ(再構築)」と。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?