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自己犠牲と救済へのアンチテーゼとしてのさらざんまい

さらざんまいを観終わった。
いままでの幾原作品の中では比較的分かりやすい作品だったと思う。イクニのアニメは得てして分かりにくいようで言いたいこと、伝えたいことはストレートなものばかりである。

幾原作品は「伝えたいけど伝わらない」ことがあまりに多すぎて考察を誘発する幅というか懐の深さがあるといえば聞こえはいいが、要は一見さんには作品を観てもよく分からないためハードルがかなり高いと正直思う…。

今回のさらざんまいも1話を観て明らかに人を選ぶ作品だと思ったが、内容は他の作品より明らかにシンプルなものになっている。

例えばウテナやピングドラムなら最終回まで伏せられたカードが多すぎて何が何やら分からんといった視聴者も多かったと思うが、さらざんまいは逆に早い段階から伏せているカードを少なくし、多くのカードをオープンにして戦うことを選んでいた。尻子玉のこともカワウソの本部のことも中盤でかなり早い段階から丁寧に説明してくれてるのでだいぶ幾原アニメの初見さんにも優しい作りになってる…はずである。

そして、最終回もはっきりと言いたいことを言っており、ほとんどの人にも分かりやすい言葉で伝えることにたぶん成功していてイクニもだいぶ丸くなったなと思った(後方俺だけがイクニのことを分かってる面)

自己犠牲なんてダサい

幾原作品は基本的に自己犠牲と引き換えに何かを変えること、誰かを救うことを主題としている場合が多い。

少女革命ウテナであったらウテナが王子様になるために戦い、結果としてそれには失敗して人々から忘れ去られるが彼女の戦いが結果的にアンシーの内面に変化を起こすことで彼女が学園の外へ足を踏み出せる力となった。

ピングドラムであったら陽毬の為、あるいはテロを起こさせないために運命の乗り換えによって冠葉と晶馬が別の子供として生まれ変わる世界線に移動することで陽毬や人々が救われる代わりに陽毬や苹果からは冠葉と晶馬の記憶が無くなることなどである。

さらざんまいはそんな自己犠牲による他者の救済対してのアンチテーゼを幾原自らが行なっている。

一稀が尻子玉と引き換えに春香を救おうとした際に燕太に殴られて止められているように、いままでの自己犠牲を通しての他者の救済を早い段階で否定している。この時点でさらざんまいにおいて自己犠牲での他者の救済の問題に関してはレオとマブに引き継がれているが、さらざんまい自体の物語の本筋ではない。

では、さらざんまいの物語の本筋とは何かといえば最終回で吾妻さらが言っているように「何かを失っても、絶望しても、欲望を手放してはいけない」ということに尽きる。

さらざんまいは1話から最終回まで一貫して繋がることの難しさ、繋がっていたとしてもいつか失ってしまうこと、繋がりの脆さを描いてきていたと思う。

だが「自分の居場所、存在価値は無くせない」とウテナOPのように、繋がりを全て失うことはイクニの世界では基本的にできない。というよりも繋がりを失うと透明な存在だったり眞悧先生のようになり「現実」から離れた存在となってしまうのである。

実体のない概念との戦い

さらざんまいではカワウソを概念として今回は敵ポジションに置かれているが、その目的もかなり単純でカパゾンビ(欲望のベクトルが異質な人たちの末路)を増やすこと、世界から繋がりを無くしていくことであり、これまでの敵ポジションのキャラと比べて凄まじく分かりやすい悪という感じがする。

ウテナの暁生やピンドラの眞悧先生のような人間臭い部分がカワウソにまるでないため非常に奥行きのないキャラクターになってしまってもおり、いささか物足りなくもある。

今回は欲望の対象とそれに対する繋がりを無くしてはいけないということのみが大きな主題で、概念はそれを阻害するもの、否定するものとしてある存在として置かれてのだと思う。そして面倒なのはカワウソは欲望それ自体を否定する存在でもあり欲望を利用する悪魔的なものとして機能していることだ。

だがあくまで概念は概念でしかなく最終的にカワウソは綺麗さっぱり消滅するし、最後まであくまで舞台装置、狂言回しでしかなかったように思う。

久慈の償い

今回、エンディングで久慈がこれまでの罪を償うべく刑務所に入るシーンが流れる。これは明らかに今までの幾原作品とさらざんまいが違う文脈を有してると思うシーンであった。

幾原作品は基本的に殺人などの重罪を犯した人間には何かしらの罰が下る世界観だったが(レオやピンドラの真砂子)注目すべきは公的な機関を通して現実的に服役という形で罪の清算が行われている部分である。

この刑務所という繋がりから強制的に遮断された場所に久慈がいくことによって罪を償いわさせるというフローが今回必要だったのは欲望を手放さず、未来へ向けて再出発することに重きを置いていたからであると思う。

少なくともいままでの幾原作品の世界では過去から自分を消すことや人のために死ぬことがそこまでマイナスに描かれてなかったように思うし、ビターエンドもあり得たかと思う。だが今回はそれをイクニは選ばなかった。

選ばなかった理由としては前述した通り繋がることを最後まで諦めらめていないからである。そのためには幻想的な演出ではなく現実的に刑務所という形のほうが圧倒的に分かりやすいから選ばれたんだと思う。

そして特筆すべきは今回の物語の結果として久慈の内面にも変化があったということである。これはウテナでのアンシーの変化と同じであるが、久慈の場合は兄を現実的に失っているという点で若干違うが、やはり兄弟間の繋がりより別の大切な繋がりを久慈が選んだのが今回のさらざんまいの全てだと思う。

3人の未来

最後のさらざんまいの場面で3人の未来が漏洩し、最後には3人が離れ離れになってしまうかもしれない未来が可能性としてあることが示される。しかし、そのことを理解した上で久慈が刑務所を出たあとでも3人は繋がることを諦めていない。

繋がりたいという欲望を手放さない限り彼等はまた巡り会うのだと思う。

だが更なる未来は誰にも分からないし、また彼等には結果としてとんでもない不幸や悲劇が待っていることもあり得る。だが、そのことは大した問題ではなくそこに至るまでの過程こそ本質で、それを維持するためには対象を追い続ける、要は「欲望を循環させる」ことによってのみ我々は透明な存在にならずに…自分の形を保つことが出来るのではないか。

さらざんまいはそんなエモいことを考えさせてくれる素晴らしい作品だった。

ああ…次は劇場版セーラームーンRを観なければ…


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